「氷河? どうかした?」
目覚めて五感が活動を始めると、まず瞬の声が俺の耳の中に滑り込んできた。
そして、視界に、瞬の心配顔。
幾つになっても、澄んで大きな瞳。
幾つになっても、優しく温かく、可愛らしい印象の強い面差し。
覚醒と同時に見聞きして――外部からの刺激として、五感で知覚したのに――ほとんど緊張感を呼び起こされず、逆に心身が安らいでいく。
自分は まだ夢の中にいるのかと錯覚してしまいそうな和み系。
これが、この地上世界で最も強い闘士の一人なんだから、人は見掛けによらない。

「悲しい夢でも見ていたの?」
心配顔の瞬に問われて、俺は唇の端を僅かに歪めた。
俺は、瞬に比べれば どうしようもなく情けない男だが、“悲しい夢”を見て、その悲しみに傷付く事態を心配されるほど弱い男でもない(そのつもりだ)。
まあ、『恐い夢でも見ていたの?』と訊かれるよりは ましか。

夕べ帰宅したのは午前2時前。
ナターシャの寝顔を見てから、瞬の隣りに潜り込んだ。
その時、瞬の寝顔も ちゃんと見ておこうなんてことを考えたのが よくなかったんだな。
眠っている瞬の睫毛の影が 妙に蠱惑的で、俺は そのまま大人しく眠ることができなくなった。
瞬を起こしてしまわないように、瞬の肌を そっと、文字通り愛して撫でたが、黄金の雨に化けて女を犯したというゼウスでもない限り、愛人を目覚めさせずに交合できるわけがない。
眠りの中にあって 花が開く音さえ感知する瞬のこと、俺が その行為に及ばなくても、瞬は目覚めていただろうが。

たぎる情欲を瞬に静めてもらってから、俺は、まるで遊び疲れた子供のように満足して眠った。
瞬には、俺の我儘勝手を怒る権利があると思うんだが、“悲しい夢”を見て悲しい気持ちでいるのかもしれない俺に、瞬は優しい。
まあ、瞬を起こしてしまわないために、瞬の横で必死に情欲を我慢する俺なんてものは、瞬もあまり考えたくないだろうから――許すしかないんだろうな。瞬は、俺の我儘を。

それにしても――あれは“悲しい夢”だったんだろうか。
昨夜は、相変わらず歓びの源泉としか言いようのない瞬の身体を味わって――心身共に たっぷり歓ばせてもらって、俺は心も身体も満ち足りていた。
俺には どんな不安も欠乏感もなかった。
だから、あんな夢を見る要因などなかったと思うんだが。

「ガキの頃の夢を見た」
俺の顔を覗き込んでくる瞬の首に腕をまわし、キスをねだる。
瞬の唇は、俺の唇の上で、
「子供の頃の夢? シベリアにいた頃の?」
と尋ねてきた。
頷く代わりに 俺は、瞬の唇を、身体ごと俺の方に引き寄せた。

「シベリアに送られて半年――いや、1年近く経っていたかな。俺は 海の底に潜って、マーマの姿を見ることができるようになっていた」
……と思うんだが、あれは本当にあったことだったんだろうか。
もしかしたら、俺は、ガキの頃に見た夢を、夢の中で思い出していただけだったんじゃないだろうか。
今の俺はもう、帰らぬ母を諦めきれず追い求めていた未熟な子供じゃない。
俺が今 求め必要としているのは、俺のマーマじゃなく、ナターシャのマーマだ。
それは瞬も わかっていると思うんだが――俺は一瞬、話すことを ためらった。
一瞬間だけ。
どうせ過去の話だ。

「見知らぬ男が、俺に、母を生き返らせたいかと訊いてきたんだ」
「氷河……」
瞬は、妙に か細く聞こえる声で 俺の名を呼んだ。
俺は マザコンは脱却したぞ。
いや、もともと俺は、マザコンなんかじゃなかったんだ。
俺の命を守るために 自分の命を投げ出した美しい人を 愛し、悼みはしたが、彼女に生き返ってほしいと望んだことは、俺は一度もなかった。
俺はただ、瞬が、幼い頃から成人に至るまで、“亡き母を恋い慕う俺”に同情して優しくしてくれたから、わざわざ マーマの死から立ち直ったことを、瞬に報告しなかっただけだ。
俺は、幼くして母を失った大抵の息子が そうするように、母を慕っていただけ。
それをマザコンと呼ぶなら、確かに 俺はマザコンなんだろうが、なら、男はみんなマザコンだと思う。

瞬は――瞬は もしかしたら、俺が今でも心の片隅に母を求める思いを抱いていると思っているんだろうか。
母を生き返らせようとする夢を見たと告げた俺に、瞬は少し切なげに、それこそ慈愛に満ちた聖母のような眼差しを向けてきた。
そして、小さな声で囁く。

「僕、今なら、その頃の氷河の許に飛んでいって、ハーデスの力を使って、氷河のマーマを蘇らせてあげることができるかもしれないよ」
そうしてほしいかと、瞬は俺に問うているのか? 馬鹿な。
それは瞬らしくない、馬鹿げた仮定法疑問文だ。
俺は非難するような目で瞬を見てしまったんだろうか。
瞬の瞳の色が濃くなる。
いや、しかし、これは――ここは やはり非難すべき場面だろう。

「そんなことをして、おまえが 俺のマーマを生き返らせたら、俺は そのまま シベリアでマーマと一緒に暮らし続けたかもしれない。聖闘士になるための修行をしていても、つらい目に会うたび マーマの許に逃げ込んでいたに決まっている。マーマが生き返ったりしたら――どんな経路を辿っても、まず 俺はアテナの聖闘士にはなれない。おまえとの再会も叶わなかったろう」
「それで氷河が幸せになれるのなら、誰かが不幸になるわけでもないんだし、それは決して 悪いことじゃないでしょう」
「俺は、歴史が変わって、人類が滅びるかもしれないと言っているんだ」

自分の力を過大評価するわけではないが、俺たち五人の勝利は、俺たち五人の中の誰が欠けても実現しなかった勝利だと思う。
瞬も、それはわかっているはずだ。
だというのに。

「でも、それで氷河が聖闘士にならずに、平凡かもしれないけど 幸せに 穏やかで優しく人生を過ごせたら、それは とても素敵なことだと思うんだ」
「瞬!」
何が素敵だと?
そんなことを真顔で言い募るなんて、瞬は気が狂ったのか。

「冗談ではないぞ! 俺が聖闘士になれないということは、俺が今の幸福を手に入れられないということだ!」
俺は怒りにかられて、瞬を抱きしめたまま、二人の上下の位置を逆転させた。
瞬の肩をシーツの上に押しつけ、大声で怒鳴りつける。
俺に怒鳴りつけられたからといって、瞬が俺に怯えるわけもないんだが、瞬は 何かを訴えるような眼差しで、俺を見上げ、見詰めてきた。

「それは、今の幸せを失うってことじゃないよ。別の幸福を手に入れられるっていうこと。氷河だけじゃなく、氷河のマーマも幸せになれる。氷河のマーマは もっとずっと生きていたかったと思うよ。生きて、氷河の成長を見守っていたかったと思う。それが氷河のマーマの幸せだったと思う」
瞬は、俺の幸せだけでなく、俺のマーマの幸せまで考えてくれているわけか。
そうすると、俺のマーマを生き返らせようなんて考えも湧いてくるわけだ。
瞬は、俺や俺のマーマの幸せを考えるのと同じくらい熱心に 自分の幸福を考えたことがあるんだろうか。
ないような気がするぞ。
いつも人のことばかり考えていて。

「瞬。それでも、多分、いや、絶対に、マーマを生き返らせてはいけないんだ」
瞬を責める気はない。
怒りは一過性のもので、すぐに消えていた。
「ナターシャちゃんを死なせなかった氷河が、そう言うの」
「すまん。俺は、ナターシャとおまえと――三人でいられる今が とても幸せなんだ。今の幸福を失いたくない」

それに―― ナターシャとマーマは違うぞ。
マーマは死んでいた。
完全に死んだ者を 自然の理に逆らって生き返らせてはいけない。
だが ナターシャは、死体の身体を繋ぎ合わせて作られた命とはいえ、生きていたから―― ナターシャは生きていたから。
俺は ナターシャを生き返らせようとしたのではなく、再び死なせたくなかっただけなんだ。
死んでしまったマーマと、生きて心を持っているナターシャ。
その二つは、決定的に違う。

本当は死んでいる命であっても、ナターシャは生きていた。
再び殺すことなどできない。
生きていたから、どうあっても俺はナターシャを諦めることはできなかったんだ。

マーマとは違う。
俺は、マーマの時は諦めた。
あの時――ガキの俺は諦めた。
そうだ。俺は諦めたんだ。
だから、今の俺がいる――。






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