そうして、俺は忘れたんだ。
俺を騙して詐欺の片棒を担がせようとした詐欺師のことも、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士どころか、前科者になるところだった俺を危ういところで救ってくれた、胸がぺったんこの綺麗なお姉さんのことも、綺麗さっぱり。
次に俺が胸がぺったんこの綺麗なお姉さんのことを思い出したのは、それから数年後。
また俺のせいで人が死んだ時――アイザックが死んだ時。
「俺は疫病神だ」
そんなことを ぶつぶつ呟いて、いっそ このまま死んでしまいたいと思いながら、俺が一人きりで凍った海の上に 座り込んでた時だった。

「そんなことはないよ。そんなふうに言わないで。君が疫病神なら、僕だって同じだ。力が足りない人間は、みんなそう。ううん、人間は みんなそう。どんなに強い人でも、必ず誰かに支えられている。誰かに支えられなきゃ、人は生きていけない。だから、強くなろうとして――強くなって、今度は自分が弱い人を守れるようになろうとするんだよ」
相変わらず とんでもない薄着で、胸のないお姉さんは 氷点下20度の寒風の中で、俺を慰めてくれた。

再会した途端、再会するまで すっかり忘れていた人のことを、俺は思い出したんだ。
忘れさせられていた怒りも手伝って、俺は、すごく つっけんどんな口調で、お姉さんに噛みついていった。
「そうなんだとしても――自分を支えてくれる人を死なせるのは、俺だけだ。それも二人も」
「だから自分は死んだ方がいいと思っているの? だから、こんな海の上にいるの? こんなところに長くいたら、心も身体も凍えてしまうよ」
「あんたに言われたくない」

凍え死ぬなら、シャツ一枚のお姉さんの方が先だ。
そのはずだ。
お姉さんは少しも寒そうじゃなかったけど。
こんなに寒いのに コートなしで平気だなんて、このお姉さんは 実際に ここにいるわけじゃないのかな?
ほんとは どっか遠くの あったかいところにいて、俺の目に見えているのは幻影とか、三次元映像とかで、実体じゃないのかな?

相変わらず綺麗で優しい目。
この目のことを忘れずにいられたら、俺は、あの詐欺騒ぎのあとも、もう少し心強くいられたろうに。
なのに、お姉さんが忘れさせるから、俺は 胸にぽっかり穴が開いてるみたいな気持ちで、マーマのためにも生き続けなきゃならないんだって思いだけで、生きてこなきゃならなかったんだ。
そんな空っぽ人間だから、アイザックまで死なせてしまった。
俺は疫病神だ。

唇を噛みしめ、俺は俯いた。
そんな俺の肩を、氷の上に膝をついて、お姉さんが 抱きしめてくれる。
こんなに薄着なのに――薄着だから?――あったかい。
お姉さんは、どう考えても、幻影なんじゃなく、実体だ。
幻影が こんなに あったかいはずがないし、触れ合ってる感触を、こんなにしっかり味わえるはずもない。
俺は、お姉さんの胸に右の肩と頬を押しつけていった――相変わらず、ぺったんこの胸。
こんなに綺麗な目をしてたら、胸なんかなくてもいいけどさ。

「ここで、君が自分に絶望して死んでしまったら、アイザックは何のために君を助けたの。マーマは何のために君を助けたの。ねえ、氷河」
お姉さんが、物わかりの悪いガキに言い聞かせるみたいに、優しく囁く。
お姉さんは綺麗だし、優しいし、あったかいけど、結局 いつも『どんなに つらくても生きろ』って、俺に言う。
『諦めて、楽になれ』とは言ってくれない。
『死んで、楽になっていい』とは言ってくれない。
優しそうに見えて、実は 誰より いちばん厳しいんじゃないかな。
カミュより、お姉さんの方が厳しい。

俺は試しに言ってみたんだ。
「頑張って、これからも生きるから、お姉さんのことを忘れさせないでくれ」
って。
お姉さんの答えは、
「君が生きていてくれたら、また会えるよ」

そうして結局、俺はまた お姉さんのことを忘れたんだ。






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