「僕、今 手術をすれば、目が見えるようになるって言われてるんだ。僕の手術をすれば、ニュースになって 病院の宣伝になるから、手術をしたがってるんだよ。眼科の先生は、恐がる必要はないし、もし手術が上手くいかなくても、今まで通り見えないだけなんだから、恐がらずに手術を受けろっていうんだ。でも、僕が恐いのは、見えるようになることの方なんだよ」 「どうして 恐いノ? 目が見えるようになったら、床に落ちてる積み木に躓いて転んだりしないから、危なくなくなるヨ。ナターシャとナターシャのマーマの顔も見れるようになるヨ」 小宇宙と同じように綺麗で優しいマーマの目を見たら、きっと斗音くんも嬉しいに決まっている。 決して がっかりすることはない。 ナターシャは そう信じていたが、斗音くんが案じているのは、そういうことではないようだった。 「ナターシャちゃんと ナターシャちゃんのマーマが綺麗なことは、目が見えなくてもわかるよ。でも、目が見えるようになると、オーラが見えなくなって、それで人の本心がわからなくなるような気がして、恐いんだ」 目が見えるようになると、これまで見えていたものが見えなくなるのではないか。 それが 斗音くんの心配事で不安の原因らしい。 斗音くんが そんなことを心配する気持ちが、ナターシャには よく わからなかった。 「でも、そんなの、ナターシャも見えないし、他の人も見えてないと思うヨ。ナターシャ、それでも全然平気ダヨ」 『何があっても、パパとマーマがナターシャを守ってくれるに決まってるから』とは、ナターシャは言わなかった。 つい言ってしまいそうになったが、言わなかった。 言ってはいけないような気がしたのだ。 ここにいる事情を斗音くんに問われ、マーマのお仕事が終わるのを待っているのだと ナターシャが告げた時、斗音くんは、この病院に入院してから 一度もパパにもママにも会っていないと言っていたから。 この世界には、パパとマーマと一緒にいられない子供が たくさんいることを、ナターシャは知っていた。 パパとマーマがいても 会えない子供もいるし、そもそもパパとマーマがいない子供もいる。 ナターシャのパパとマーマも そうだった。 ナターシャのマーマは、そんな悲しい子供を一人でも減らしたくて、そのために戦っている。 ナターシャのパパは、ナターシャのパパになることで、ナターシャを悲しい子供でなくしてくれた。 ナターシャは、とても幸運な子供なのだ。 自分の幸運を、ナターシャは自覚していた。 「ナターシャちゃんは最初から見えていて、最初から見えてないから……」 「斗音くんのパパとマーマは なんて言ってるの?」 ナターシャが そう訊いたのは、斗音くんを この病院に入院させたのは 斗音くんのパパとマーマのはずだと思ったからだった。 目が見えるようになるのが恐いという斗音くんが、自分から入院してきたはずはないし、それ以前に、病院というものは、子供が入院したいと思っただけで入院できる場所ではない。 何より、ナターシャなら、難しくて自分で決められないことは、パパとマーマに相談する。 斗音くんはパパとマーマに会えないだけで、斗音くんのパパとマーマはいるのだから、離れていても相談はできるはずだと、ナターシャは思ったのである。 「僕のパパとママは、手術すれば 目が見えるようになるんだから、手術しなさいって言ってた。そのために 僕を入院させたんだ」 それは、尋ねるまでもないことだった。 斗音くんの目を見えるようにする手術をするために、斗音くんのパパとマーマは斗音くんを入院させたに決まっている。 「だったら」 「でも、ほんとに、心から、僕の目が見えるようになればいいと思ってるわけじゃない――と思う。そう言った時、パパとママのオーラが歪んでたから」 「え?」 「パパとママは、僕が目の見えない天才作曲家でいた方がいいって思ってるのかもしれない」 「……」 斗音くんが話す言葉の意味は、ナターシャにもわかっていた――わかる。 一つ一つの言葉は、ほとんどナターシャが聞いたことのある言葉で、その意味も、ナターシャは すべて知っていた。 だが、それが文章になった途端――文章と文章が連なって、お話になった途端――斗音くんが話す話は、ナターシャには理解できないものになるのだ。 斗音くんのパパとマーマが、『斗音くんが 目の見えない天才作曲家でいた方がいいと思っている』とは、どういうことだろう。 “目の見えない天才作曲家”より、“目の見える天才作曲家”の方がいいに決まっているではないか。 目が見えるようになれば、斗音くんは、床に転がっている積み木に躓いて転ばずに済むようになるのだ。 理解できない斗音くんの話に驚いて、ナターシャは 大きく瞳を見開いた。 そんなナターシャを、斗音くんが 更に驚かせる。 「僕のパパとママは、僕のこと、嫌いなんだ」 「えええっ」 「だから、僕が入院しても、パパとママは会いに来てくれないんだ。最近、日本では、僕のパパとママは、パパとママの名前じゃなく、“縦山斗音のご両親”って呼ばれることが多いから、パパとママは気分が悪いんだ」 「そんなの……」 そんなのは変だと思う自分が おかしいのだろうか。 “パパとマーマの娘”と呼ばれることは、ナターシャには、“世界一 可愛くて、世界一のいい子”と言われているのと同じ。 “パパとマーマの娘”と呼ばれることは、ナターシャには、足が地面から浮き上がってしまいそうなほど嬉しいことで、“パパとマーマの娘”は、“ノーベル賞をもらった人”や“美人コンテストの世界チャンピオン”よりすごい最高の称号だった。 「僕の目が見えるようになって、僕が作曲できなくなったら、もしかしたら パパとママは喜ぶのかもしれない。そしたら、パパとママは、僕のパパとママって呼ばれずに済むようになるから。でも、僕、それも悲しいから嫌なんだ。それは僕が悲しいから……」 『いちばんいいのは、斗音くんの目が見えるようになって、作曲もできることダヨ! どうして、斗音くんも斗音くんのパパとマーマも、いちばんいいことを願わないの!』 ナターシャは、そう叫びたかった。 そう叫んでしまってはいけないことは わかっていたが、それでも本当は。 「ナターシャちゃんはいいなあ。綺麗なママ。本当に綺麗なママだ。きっと、ナターシャちゃんを大好きで、ナターシャちゃんも ママが大好きなんだ」 『あったりまえダヨ!』と答えられない。 他の人に同じことを言われた時には、大得意で 『あったりまえダヨ!』と答えてきたのに、今 ナターシャの唇から出てくるのは、 「斗音くん……」 という、悲しい音だけだった。 ナターシャは、それが“パパとマーマと子供の当たり前”だと信じていた。 ナターシャは、それが“パパとマーマが生きている子供の当たり前”だと思っていた。 パパとマーマが自分をどれくらい好きなのかということしか考えたことがなかった。 パパとマーマに 自分が嫌われているかもしれない――などということは、考えたこともない。 ナターシャが当たり前と信じていることが 当たり前でない子供がいることが悲しかった。 斗音くんが、光を映さない瞳を更に暗くして、 「ごめん。ナターシャちゃんのオーラに ぽっかり穴が開いちゃった」 と、ナターシャに謝ってきた。 |