その日、結局 瞬は、天才作曲家と言葉は交わさなかった。 盲目の天才作曲家が目が見えるようになる手術を受けたくないと思っている本当の訳を尋ね、手術を受けるよう説得するのは、もしかしたら、大人よりも 天才と同じ子供の方が適役なのかもしれないと、瞬は思ったのだ。 子供を扱い慣れているベテランの保育士が あっけにとられるほど、短時間で容易に、気難しい天才と親密になってしまったナターシャこそが、天才少年の説得役には 最も適任なのではないかと。 少なくとも、盲目の天才作曲家を説得すべきか、説得する必要はないのか、盲目の天才は目が見えるようになった方が幸せなのか、見えないままでいた方が幸せなのか、その判断をする材料として、ナターシャの意見を聞くことは有益なのに違いないと、瞬は確信していた。 まずは ナターシャから盲目の天才作曲家の様子を聞くところから――と考えながら帰宅したら、なぜか氷河が家にいた。 蘭子が、店内で暴れて、店の照明を破壊してしまったらしい。 店のオーナーである蘭子が、自分が連れて来た客と喧嘩になり、店内で大立ち回りを演じてくれた。 幸い 開店前だったので 客に被害はなかったが、暗闇の中で酒を提供するわけにもいかないので、今日はヴィディアムーは 店のオーナー公認の臨時休業(もちろん有給)ということになったのだそうだった。 「俺は闇の中でも酒は作れるんだが、闇の中で客にグラスを持たせるのは危険だからな」 暗闇の中で飲んだ方が、視覚情報に惑わされない分、深く酒の味を味わえるかもしれないが――と、氷河は呟いた。 盲目の天才作曲家も、闇の世界の住人だからこそ、天才たり得たのかもしれないと、氷河の報告(仕事をさぼったのではないという報告)を聞いて、瞬は思ったのである。 ナターシャが、そんな氷河に、そして 瞬に、ひどく思い詰めたような目をして、 「パパとマーマは ナターシャのこと好き?」 と尋ねてくる。 瞬たちの答えは、もちろん、 「当たりまえだ」 「大好きだよ」 だった。 「ドーシテ?」 どうして好きなのかと尋ねてくるということは、この質問が、『大好きだよ』という答えをもらって喜び安心するための質問ではないということである。 もしかしたら、盲目の天才作曲家と知り合ったことが、ナターシャの この質問の動機なのだろうか。 瞬は、ナターシャのために選んでおいた絵本を棚に戻し、氷河とナターシャが座っているリビングソファに移動した。 「ナターシャは、俺と瞬の娘だけあって、世界一 可愛いからな」 「とっても、優しい いい子だしね」 「ナターシャが全然 可愛くなかったら、パパはナターシャを嫌い? ナターシャが意地悪な悪い子になったら、マーマはナターシャを嫌いになっちゃう?」 「ナターシャちゃん……?」 いったいナターシャは天才作曲家と どんな話をしていたのだろう。 ナターシャが口にしたIF文の意図がわからず、氷河が眉をしかめている。 瞬は 少し考え込む振りをした。 「うーん……ナターシャちゃんは とっても可愛くて優しい いい子だから、意地悪な悪い子のナターシャちゃんは想像できないけど、でも、ナターシャちゃんが そんなナターシャちゃんになっても、僕と氷河はナターシャちゃんを大好きなままだろうね」 「ソーナノ? パパとマーマは、悪い子のナターシャを嫌いにならないの?」 「うん、きっと。もし ナターシャちゃんが 悪い子になっちゃったら、それは僕たちのせいだからね。優しくて、みんなに愛されて、みんなに必要とされるナターシャちゃんに育ててあげられなかった僕たちが悪いんだ」 「“可愛い”というのは、ちゃんと笑顔を作れるということだぞ。瞬のように、困っている人に手を差しのべてやれる優しい子だということだ。優しい心を持っている人間は、表情や行動や所作に優しさが にじみ出てくる。そういう子になれば、すべてが可愛くなる。ナターシャは可愛い」 ナターシャの質問の意図は 未だにわかっていないらしい氷河が、わかっていないなりに、彼の『可愛い』の定義を披露する。 その答えを聞いて、ナターシャは嬉しそうに笑ったが、それで彼女の気掛かりがすべて消えたわけではないようだった。 むしろ、ここまでは、前振りにすぎなかったらしい。 ナターシャは、ソファで居住まいを正すと、これまでより更に真剣な目で、氷河と瞬の顔を見上げてきた。 「パパとマーマには、ナターシャの小宇宙が見える?」 「ナターシャちゃんの小宇宙は、明るくて元気な蜂蜜色だよ」 「斗音くんも見えるって言ってた。斗音くんは、小宇宙って言わずにオーラって言ってたケド」 「えっ」 盲目の天才作曲家に、まさか そんな力があったとは。 彼に アテナの聖闘士になり得るような才能や能力が備わっていないことは わかっていたので、彼の その力は、純粋に“見る力”“見える力”なのだろう。 それでも――むしろ、だからこそ――盲目の天才作曲家に そんな力があることは、瞬にとって 驚くに値することだった。 「斗音くんというのは、『光の組曲』の縦山斗音か?」 なんと、氷河は、盲目の天才作曲家のことを知っていた。 「氷河、斗音くんを知ってるの?」 意外そうな声で 瞬が尋ねると、氷河は、意外そうな声で問われることが心外そうな声で、 「知っている」 と答えてきた。 光への憧憬を音で語った『光の組曲』の第三曲はナターシャの曲、最終曲は瞬の曲だと、氷河は言った(彼には そう聞こえるらしい)。 おかげで瞬は、盲目の天才作曲家が 光が丘病院に入院していることと、彼が 手術を受けることを嫌がっていることを告げるだけで、氷河に事情をわかってもらうことができたのだった。 「マーマのオーラは、とっても綺麗で、優しくて、あったかくて、きらきらしてて、強いって、斗音くんは言ってた。マーマは、斗音くんが知ってる人のうちで いちばん綺麗な人だって」 盲目の天才作曲家の言を聞いた氷河が、両肩をすくめると同時に頷くという器用なことをする。 「本当に見えているようだな」 そう言ってから、氷河は、『天才作曲家に見えているオーラと小宇宙が同じものかどうかは定かではないが』と、氷河にしては慎重な但し文を付してきた。 「“シャカの目を開けるな”の変形パターンのようなものかもしれんな。視覚が封印されていることで、小宇宙ではなく感応力が発達したのかもしれん」 おそらく 氷河の推測は正鵠を射ている――と、瞬は思った。 盲目の天才作曲家は、小宇宙(オーラ)を見ることはできるかもしれないが、彼自身の小宇宙は強くもなければ大きくもないのだ。 それどころか――。 「マーマには、斗音くんのオーラが見えた?」 ナターシャに問われた瞬は、答えに窮した。声も詰まった。 『見えたよ』と答えたあとに続く質問を避けるために、『見えたよ』と答えることを避ける。 答える代わりに、瞬は、 「斗音くんは……自分のオーラは見えていないんだろうね……」 と呟いた。 ナターシャには、瞬に斗音くんのオーラが見えていないはずがないとわかっている。 彼女は、瞬に斗音くんのオーラが見えていることを知っている顔をしていた。 にもかかわらず、それが どんなものなのかを教えてもらえないということは、自分の友だちのオーラが綺麗ではなく明るくもないということだと、賢明なナターシャは察している。 ナターシャは、そして、その事実に困惑しているようだった。 それはそうだろう。 人のオーラ(小宇宙)を見ることができるという素晴らしい力を持った人の小宇宙が、綺麗ではない(のかもしれない)。 それは、ナターシャには 理解できない不合理なのだ。 だが、実際に、瞬が保育室で見た盲目の天才作曲家のオーラ(それを小宇宙と呼ぶことには、瞬には抵抗があった)は、子供のそれとは思えないほど 歪み、複雑な様相を呈していた。 醜いわけではない。 汚いわけでもない。 しかし、明るくはなく、爽やかでもなく、元気でも のびやかでもなく――暗く沈んで、彼が幸せな子供であるようには思えなかった。 おそらく 斗音くんには、彼を支えてくれる人がいないから。 両親と離れて暮らしていること、両親の愛情を日々 実感できないことが、彼の心を不安にし、彼の精神を不安定にし、彼の気持ちを委縮させている――のかもしれなかった。 その上、言葉や表情とは乖離していることが多い大人たちのオーラなどというものが見えているとなれば、たとえ その乖離が思い遣りから生じたものであっても、子供には人間を信じることができなくなってしまうだろう。 視力を得て オーラを見る力を失い、天才作曲家ではなくなり 普通の子供になった方が、彼は幸せになれるのではないか。 そんな考えが、瞬の中に生まれてきた。 |