11月半ばを過ぎると、光が丘病院の院庭に植えられているアカシアや百日紅の木は、その葉をほとんど落としてしまった。
花と葉の衣装を脱いだ樹木の姿は、その姿を見る者が感じる気温を実際よりも低いものにする。
夕方の4時を過ぎると、入院患者は外に出てこなくなり、庭には、外来診療が一段落して休憩を取りに来た職員の姿が ぽつぽつとあるきり。
穏やかで静かな秋の夕暮れが、そこにはあった。

瞬が斗音くんを院庭に誘ったのは、彼は目で寒さを感じることはないだろうと思ったから。
他の人間の気配が適度に感じられる開かれた空間の方が、人の気配を隠しやすいから。
ナターシャが、駆けっこのできる屋外を好きだから。
もっとも 車や自転車が走っていない 晴れた日の屋外でも、思い切り外を駆けまわることのできない子供がいることを知ったナターシャは、今は 斗音くんと並んで お行儀よく院庭のベンチに座っていたが。

「斗音くんは、自分のオーラを見たことがある?」
それは、盲目の子供には 思いがけない問い掛けだったのだろう。
人のオーラを見ることのできる人間を、彼は彼自身しか知らなかったのだから。
自分のオーラを誰かに見られる事態というものを、彼は想定したこともなかったに違いない。
「ない……見えない……」
答える声が震えたのは、次に瞬が発する質問がわかっていたからではなく、盲目の子供が既に 瞬の次の質問の答えを考え始めていたからだったろう。

「自分のオーラは、どんなふうだと思う? 明るいと思う? 力強いと思う? 綺麗だと思う?」
予想通りの第二の質問。
そんなことを尋ねる大人を、盲目の子供が意地悪で冷酷だと感じていないのは、彼に瞬のオーラが見えているから――のようだった。
暫時 ためらいはしたが、彼は素直に、そして正直に、彼の考えを瞬に語ってきた。
嘘をつくと、オーラが一層 醜く歪むことを、彼は知っているのだ。

「綺麗だとは思わない。きっと汚い。真っ暗で汚い。だから、パパとママは僕を嫌いなんだ」
「そんなことはないよ。そんなことを、ちゃんと確かめもせず、勝手に決めちゃだめ。君のオーラは 迷子のオーラだ。いろんなことを一人で考え込みすぎて、とても こんがらがってる。でも、絶対に 汚くなんかないよ」
「……」
素晴らしく美しいオーラの持ち主だから―― 斗音くんは、瞬の言葉を嘘だと思うことができずにいるようだった。
だが、信じることもできない。

「僕のパパとママのオーラは、瞬先生みたいに綺麗じゃない。ナターシャちゃんみたいに明るくもない。僕のパパとママは、僕のこと、好きじゃないんだ。僕が、ピアノもヴァイオリンも上手く弾けなかったから。曲が作れるってわかったら、最初は喜んだみたいだったけど、すぐに元に戻って、僕が“目の見えない天才作曲家”って呼ばれるたびに、パパとママのオーラは歪んだ。僕がパパとママのオーラを歪ませて、暗くしてるんだ。僕が悪い子だから。僕のオーラが汚くて 歪んでるから……!」
彼を、人影も まばらな院庭に連れ出したのは正解だった。
と、盲目の天才作曲家から 迸り出た激情――それは、嘆きと怒り、やりきれなさでできていた――に触れて、瞬は思ったのである。
病院の育児室を――他の子供たちがいる場所を、こんな悲痛な叫びで満たすわけにはいかない。

僕は悪い子だと叫び、だからパパとママに嫌われているのだと嘆く、盲目の悲しい子供。
それが 彼の真の病、彼の病の真の原因だったのだ。
彼の病の正体と 病の原因がわかったので、瞬は 早速、用意していた特効薬で、彼の傷付いた心の治療に取り掛かろうとしたのである。
だが、瞬が 病に苦しんでいる患者の治療に取り掛かるより先に ナターシャが、『痛い』と叫ぶ病人の悲鳴に反応してしまった。

「そんなことないヨ! 斗音くんは、ナターシャとナターシャのマーマのこと、褒めてくれたし、ナターシャに優しくしてくれたヨ! もし斗音くんが ちょっとだけ悪い子だったとしても、子供を優しい いい子に育てられなかったら、それは その子のパパとマーマのせいだって、ナターシャのパパとマーマは言ってたヨ!」
「ナ……ナターシャちゃん!」
瞬が慌てて、ナターシャの身体を抱きかかえ、抱きしめることで、ナターシャの口をふさぐ。
なぜ急に マーマが自分を抱きしめたのか、その訳がわからず、ナターシャは瞬の胸の中で ぱちぱちと幾度も瞬きを繰り返したのである。
なぜ急に マーマが自分を抱きしめたのか、その訳はわからなかったが、自分たちが掛けていたベンチの前に、いつのまにか大人が二人 立っていることに、ナターシャは気付いた。

秋は終わりかけているが、まだ冬ではないのに、完全防寒のオーバーコートを身にまとった少々 化粧の濃い女性と、コートは着ていないが 厚手の生地のスーツを着た背の高いオールバックの男性。
二人が斗音くんのパパとママだと ナターシャが気付いたのは、オールバックの男性の意外に細い眉が描くラインが斗音くんの それと同じだったからではなく、完全防寒の女性の目の印象が、光を宿すようになった斗音くんの瞳を彷彿とさせるものだったからでもなく、マーマの慌て振りという結果から 原因を探る、いわゆる逆問題の解答として、一つの答えに辿り着いたからだった。
ナターシャが斗音くんのパパとママがいけないのだと責めているところに 当の二人がやってきたから、マーマは慌てることになったのだと、ナターシャは推理したのである。
その推理は、もちろん当たっていた。






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