「大和猿楽四座の流れを汲んでいないので、能楽協会には属していないんですが、我が家は 能楽協会外では最大規模の能の一門で、私の父はその宗家です。私は長女で、宗家を継ぐつもりでいました。弟が一人いて、才能はあると思うんですけど、能より恐竜の方が好きで、古生物学者志望。大学に入ってからは、師事する先生について、年中 あちこちに発掘に出掛けている。弟は、私がいるから、自分は自由に自分の将来を決められると思ってるみたい」 ナターシャは、氷河と額をくっつけて、熱心にパパの撮った動画を検証している。 氷河は、どの瞬間のナターシャも可愛くて困っているらしい。 「昔と違って、今は 女流能も盛んだし、能楽協会に属しているシテ五流に先んじて、初めての女性宗家を出せば、私の家は 社会の注目を集めることができる。私の家に限らず、歌舞伎や狂言に比べると今ひとつ 人々に親しまれていない能を もっとポピュラーな存在にすることもできると気負ってもいた。私は 大学にも行かず、能のことばかり考えて、能の修行に打ち込んでいたんです」 そう言って、彼女は、肩に掛けていた大きめのバッグから扇を取り出した。 いつも取り出せるところに扇がないと落ち着かない――ということらしい。 手に取った扇を右手に持ち、その扇で、彼女は ちびっこ広場で一番人気の遊具の方を指し示した。 前方に伸ばした腕が、1ミリたりとも揺れ動かない。 そんな彼女のもとに、先月、突然 見合い話が降ってきた。 相手は 小鼓方の家の跡継ぎで、彼女より6歳年上。 ちなみに、継家華子女史は、男嫌いなわけではなく、独身主義というのでもないらしい。 世阿弥は、『家、家に非ず。継ぐを もって、家とす』と言っている。 『家は、ただ血が続いているだけでは無意味。才能のある者が 家の芸や思想を間違いなく継承して初めて 家が続いていることになる』というほどの意味である。 その世阿弥の言葉に、彼女も 基本的には賛同していた。 家の芸を、彼女が継ぐつもりでいたのであるから当然である。 彼女が、彼女の父に、見合いの意図を尋ねたのも 軽い気持ちからのことだったらしい。 “家”の将来を 父が どう考えているのか、確かめておこう――という程度の軽い気持ちだったのである。 彼女の父である継家流宗家は、まだ40代。 宗家継承は、宗家の身に特段の問題が起きなければ、2、30年は先のことなのだから。 軽い気持ちで尋ねた彼女は、しかし、敬愛する父から 思ってもいなかった父の将来構想を聞くことになってしまったのだった。 彼女の父は、彼女の弟に宗家を継がせるつもりでいたのだ。 能は、男の体格、男の運動能力、男の声と声質を前提として発達してきた芸。 思想はともかく、芸を確実に継承するには 男子の方が適している。 彼女に結婚を勧めるのは、彼女の息子なら 才能 あふれる男子 ―― 正しく家の芸を継承してくれる男子を儲けられるに違いないと考えてのことだというのだ。 「私が 宗家を継ぐ気満々で 修行に打ち込んでいるのを知っていて、その上で 何も言わずにいたのは、演者としてはともかく指導者としては女性の方が向いてるから――だったんですって。師範として、宗家を助け、家を盛り立ててくれって……!」 扇を手にしていた腕を下ろし、彼女は 唇と肩を わななかせた。 「声が低くて肩幅があるなら、私より未熟でも、私ほど 能を愛していなくても構わないんですって! 女性活躍推進法が施行された今、女性宗家誕生が、どれだけ継家流の益になるか、能の隆盛に寄与するか、それが わからない父じゃないはずなのに! 男しか本舞台に立てない歌舞伎だって、元は女が起こした芸能なのに! いっそ、家を出て、女流能の新流派を作ろうかと思ったくらい。女の子だけのアイドル能グループを作るの。きっと滅茶苦茶 受けるわよぉ。日本中の能楽師が みんな泡を吹いて ぶっ倒れちゃうわね」 彼女は、かなり ヤケになっているようだった。 無論 本気で言っているのではないだろうが、彼女が 相当 ヤケになっているのは間違いない。 「日本の歌舞能を完成させた世阿弥元清は 絶世の美少年で、その美貌で 時の将軍・足利義満を魅了し、自分の能の庇護させたのよ。世阿弥が義満に初めて会った時は12歳。華奢で、声だってまだ細かったはずだわ。なのに、いつのまにか、能は男だけの芸になり、女流能楽師の能楽協会登録が認められたのは、世阿弥の時代から600年が過ぎた1948年。能の幽玄は、平安朝的な優美さを持つことで、女性的な美しさのことだって、世阿弥も言っているのに、女性的な美しさを 女性には表現できないなんて、そんなの おかしいでしょう!」 かなり激しているようなのに、こんな時でも、継家華子女史の腹式呼吸は完璧だった。 だが、決して高い声ではないのだが、どう聞いても女性の声。 もちろん、ここは能舞台ではないが、女性の役も男声で演じる能に、女性の声は 確かに不利――と、門外漢の瞬でも思わないわけにはいかなかったのである。 ともあれ、彼女には落ち着いてもらわなければならない。 だが、どうやって。 どうすれば彼女の怒りを静められるのか、その方法が、瞬には わからなかった。 彼女自身、瞬に 自分の苛立ちを消してもらえることを期待して、瞬に声を掛けてきたのではなかっただろう。 瞬を見掛けて、『女と見誤られるような男でも、男でさえあればいいのか』という、半分 憤りでできた疑念が生じたところに、男前の歌が聞こえてきて、つい うっかり魔が差した――否、むしろ、物の弾みで 堰が切れたとでも言うべきか。 そういう状況が、たまたま 現出してしまっただけなのだ。 おまけに、瞬は、何を言っても優しく受けとめ許してくれるような印象があり(と、病院の同僚たちに言われていた)、瞬の前では 多くの人間が緊張を解き、心の鎧を脱ぎ去り、気を緩め、正直になってしまうのだ(と、病院の同僚たちから言われていた)。 しかし、彼女の怒りを静め、悩みを解決してやることは、自分にはできない。 瞬にわかっているのは、それだけだった。 「継がなければならない家があって――自分が進む道が 最初から他人によって決められていたら、人は反発するものだと思っていました」 うっすらと微笑を浮かべて、瞬は そう言った。 瞬たちの場合は、否応がなかった。 否も応もなく――アテナの聖闘士になるしかなかった。 生きるためというより、死なないために。 逃げることはおろか、他人に強要された人生に反発するという贅沢すら与えられなかった。 聖闘士として戦う中で、強いられた道を肯定する気持ちが生まれてきて 今に至るが、彼女は 能の家に生まれ、能以外の道に進むことを考えはしなかったのだろうか。 それが 瞬には不思議だった。 その“贅沢”が、彼女には許されていただろうに。 「私は――」 瞬が 彼女の怒りを静めようとか、彼女の苦悩を解決してやろうとか、そういった気負いを持たなかったのが、かえって よかったのかもしれない。 瞬の やわらかい微笑に出会って、と胸を突かれたように瞳を見開いた彼女は、次の瞬間、憑き物が落ちたかのように穏やかな表情になった。 「すみません。突然、見知らぬ女に話しかけられて、絡まれて、わめき始められて――瞬先生にしたら、『なに、こいつ』って感じですよね。すみません。私、もう2年くらい前から、瞬先生のこと、世阿弥って、こんなふうな美少年だったんだろうなあ――って、羨んでたっていうか、ちょっとストーカー入ってたんです」 扇は演じるためのもので、扇ぐためのものではないらしい。 狼狽と動揺と焦慮で 火照った頬は そのままに、閉じた扇を両手で握りしめ、彼女は、瞬に腰を折って詫びてきた。 瞬は もちろん、彼女を責めるつもりはない。 「継家さんは、強いられたわけではなく、自分で選んだ道だったから、反発など しようもなかったんですね」 瞬が問うと、彼女は、今度は 至って神妙な様子で 瞬に頷き返してきた。 「私、物心つく前から、能のことばかりだったんです。物心ついてからは なおさら、能のことばかり。能の幽玄美に囲まれて暮らしてきたんです。父の舞が好きで、父のように舞いたくて、父に認めてもらいたくて、父の跡を継いで宗家になることが、父に認めてもらえた証になるんだと信じて、勝手に そう思い込んで、これまで生きてきたんです」 「それは――」 『それは、もしかして、ファザコンという病気なのでは?』と、瞬が言わずに済んだのは、もう一人の、まさにファザコンな娘が登場したおかげだった。 |