「お酒を飲んでするお話は、つらかったり、悲しかったりしたこと? ナターシャは聞いちゃダメなお話ナノ?」
パパが大好きなナターシャは、いつもパパを見ている。
そして、いつもパパの気持ちを考える。
ナターシャは、パパに関することでは、恐ろしく勘が良かった――否、彼女は 洞察力と想像力が優れているのだ。
幼い少女らしからぬ その問い掛けに、瞬は あまり驚かなかった。
それは、ナターシャなら当然 考え及ぶ可能性のある疑念だったから。

「そんなことはないよ。ただ、氷河は、ナターシャちゃんの前では、強くてカッコいいパパでいたいから……。自分が割った氷の塊が頭にぶつかって ひっくり返ったなんて、カッコ悪い思い出話は、ナターシャちゃんには聞かせたくないんだよ。そんな話を聞かせて、ナターシャちゃんをがっかりさせたくないんだ」
「ナターシャ、がっかりしたりしないヨ。ナターシャ、パパに痛いの痛いの飛んでけしてあげるノニ」
「そうだね。僕もしてあげたかった」
ナターシャが氷河にしてあげたいと思うことは、大抵、瞬が氷河にしてあげたいと思うことと(本質的には)同じことが多かった。
だから二人は 話が合い、気が合う。
同じ人の幸せを願うナターシャと瞬は、正しく同志であり、正しく家族なのだ。
ナターシャの瞼は、なかなか重くならない。

「マドレーヌを食べても、ナターシャは、パパとは楽しくて嬉しい思い出しかないヨ」
「ナターシャちゃんを楽しくて幸せなナターシャちゃんにすることが、氷河の生き甲斐だからね。ナターシャちゃんが楽しい思い出しか持っていないなら、それは氷河がしっかり頑張って、ナターシャちゃんと守れてるってことだよ。氷河は偉いね」
「ウン。パパは偉いヨ。デモ……」
「でも? でも、なあに」
「デモ、ナターシャは、パパの つらかったお話や、悲しかった お話を聞いて、パパを慰めてあげたい……」
「……」

氷河がナターシャを愛してやまないのは、ナターシャが自分の幸福や満足だけを考える少女ではないからだろう。
氷河は我儘なのに(と、彼自身は思っている)、ナターシャは そうではないから。
氷河は確かに我儘な男だが、それは彼が自分で思っているほどではない。
氷河の我儘は そもそも、氷河自身のためのものではなく、氷河が愛する人のためのもの。
それが 時に、周囲の人間に多大な迷惑を被らせることがあるだけで――その点、氷河とカミュは似た者師弟だった。

「ナターシャちゃんが そんなふうに思っていることを知ったら、氷河は それだけで嬉しくて感動して、どんなに つらいことだって、へっちゃらになっちゃうよ」
「ホント? そしたら、パパは もう つらくない? 悲しくない?」
「ナターシャちゃんがいてくれる限り、きっと」
「ヨカッター」
ナターシャの ほっとしたような笑顔は、パパが今は つらくも悲しくもないことが わかったから。
これからも そうだろうことが、確信できるから。
ナターシャの笑顔は、瞬をも幸福な気持ちにしてくれた。

「つらいことや悲しいことを乗り越えて、人は強くなる。つらいことや悲しいことを乗り越えて、氷河は今は強くなった。ナターシャちゃんがいてくれれば、氷河は これからも どんどん強くなるよ。ナターシャちゃんを、これからもずっと、今よりももっと 楽しくて幸せなナターシャちゃんにするために」
「ワア。……ア、デモデモ、マーマ。そしたら ナターシャは、楽しくて幸せな思い出しかない子になるよ。つらいことや 悲しいことを乗り越えられないヨ。そしてら、ナターシャは強い子になれないノ? 強いオトナになれないノ?」

氷河の人生の目標がナターシャの幸福なら、ナターシャの目標は、マーマのように強く優しいオトナになることである。
それが、パパの好きなタイプだということを、ナターシャは氷河自身からも 紫龍や星矢からも教えられていた。
だから、パパに好きになってもらいたかったら、絶対にパパの真似はせずに、マーマをお手本にすること。
と、誰からも言われていたのだ。
マーマのように強くなれないと、ナターシャは困るのである。
瞬は、笑顔でナターシャの不安を消し去ってやった。

「人が強くなる方法は、つらいことや 悲しいことを乗り越えることだけじゃないんだよ。困っている人を助けてあげたり、みんなを幸せにしてあげる方法を考えたり――強くなる方法はいくらでもある。それに、氷河も、いつまで 僕の言うことをきく いい子の氷河でいてくれるか……。多分、氷河は、これから変な思い出や、ナターシャちゃんが困るような思い出も作り始めるだろうからなあ……」
「ナターシャが 困る思い出?」
「うん。氷河は、ナターシャちゃんに恋人ができたら、きっとナターシャちゃんのデートの邪魔をすると思うよ。ナターシャちゃんの彼氏に文句をつけて、意地悪もするだろうね。白雪姫の魔女や シンデレラ姫の意地悪なママハハみたいに」
「えええっ! ドーシテっ !? 」

世界で2番目に強くて、世界一カッコいいパパが、白雪姫の魔女や シンデレラ姫の意地悪なママハハのような悪者になる。
それは、ナターシャには想像を絶することだったろう。
悪者と戦う正義の味方のパパが 悪者になってしまったら、世界の平和はどうなってしまうのか――。
それは ナターシャには想像を絶することだろうが、昨日までの“いい人”が、ある日 突然、途轍もない悪者になることは、人間社会では よくあることなのである。

「ナターシャちゃんが ナターシャちゃんの王子様と出会って、王子様と結婚して、王子様のところにお嫁に行っちゃったら、氷河は寂しくなっちゃうからね。氷河は、それが嫌なんだよ」
「ナターシャは、王子様とケッコンしても、ずっとパパと一緒にいるヨ!」
「そうできたらいいんだけど、王子様と結婚したお姫様は、大抵、王子様のお城に行っちゃうから……」
「パパも、ナターシャと一緒に 王子様のお城に行けばいいヨ! マーマも一緒に来てくれたら、パパは全然 寂しくないヨ」

それは、なかなか斬新なアイディアである。
入内する娘に母親が付き添う例は皆無ではないが、父親が娘の嫁ぎ先に押しかけ同居する例は、古今東西、身分の上下の別なく、人類の歴史を千年単位で遡っても見付からないのではないか。
問題は、氷河が ナターシャの そのアイディアを受け入れ、人類史上最初の押しかけ舅となることができるかどうかである。
そして、氷河がナターシャの斬新すぎるアイディアを受け入れ 実践したとしても、そんな舅を ナターシャの王子様が受け入れてくれるとは限らないこと。

「氷河は面倒くさがりだから、ナターシャちゃんが王子様のお城に行かなきゃいいんだって、言い張ると思うよ。そして、ナターシャちゃんは、パパと王子様のどちらかを選ばなきゃならなくなる」
「ナターシャは パパといる。ナターシャがいなくなったら、パパは きっと泣いちゃうヨ」
「うん。きっと、泣いちゃうだろうね……」
『ナターシャは パパといる』
それが今のナターシャの答えで、その答えは 氷河(今の氷河)を喜ばせるだろうが――。

「でも、今よりずっと先、ナターシャちゃんが氷河と同じくらい大好きな王子様に出会った時、ナターシャちゃんは、その難しい事態を、白雪姫やシンデレラ姫みたいに 頑張って乗り越えなきゃならないと思うよ」
「ドーシテモ、乗り越えなきゃならないノ?」
パパを泣かせてまで?
それが、恋をしたことのないナターシャには不思議でならないのだろう。
パパを泣かせても乗り越えなければならない苦難。
そんなものの存在自体が、ナターシャには理解できないのだ。

「うん。どうしても乗り越えなきゃならないよ。頑張って 乗り越えれば、つらいことや悲しい出来事も、いつかは笑いながら お話できる楽しい思い出になる。たくさんの つらいことや悲しい出来事を 楽しい思い出にすることが、生きるっていうことで、人が強くなることなんだよ」
氷河は もちろん、懸命にナターシャを守るだろう。
二度とナターシャに悲しい思いはさせない。ナターシャには幸せな思い出だけを。
それが、ナターシャの父親としての氷河の生きる覚悟なのだ。
だが、それだけでは駄目なのである。
氷河には 守ってくれるパパやマーマがいなくなっても、一人で立ち、人生の苦難に立ち向かい、戦う術を身につけさせてやらなければならない。
それが、真の意味で、ナターシャを守ることなのだ。

「マーマも、そうして乗り越えて、強くなったノ?」
「……そうだね。いろんなことがあったけど、何とか乗り越えてきたし、これからも いろんなことがあるだろうけど、きっと乗り越えていくよ。ナターシャちゃんと氷河と この世界を守るために」
「ソッカー。マーマにも つらいことや悲しいことがあったんだ……。そうして、頑張って乗り越えたんダ」
ナターシャは、いつもなら とうの昔に眠りに落ちている時間である。
にもかかわらず、ベッドの中のナターシャが 未だに思慮深げな瞳で じっと瞬を見上げ 見詰めているのは、カミュおじいちゃんの素敵な思い出話の興奮が消えていないから――ではないようだった。
もう、そうではない。

「ダカラ、パパはマーマが大好きなんだネ。ダカラ、ナターシャはマーマみたいに強くなるヨ! マーマはナターシャのお手本で、目標ダヨ!」
「ナターシャちゃんなら、きっと僕より強くなれるよ」
「ウフフ」
子供の頃の氷河のエキサイティングな思い出話を聞いて きらきらと輝いていたナターシャの瞳は、今は 未来の自分の姿を思い描いて 輝いている。

こんなふうに、ナターシャとは 未来の話がいくらでもできるのに、カミュには 思い出を語ってもらうことしかできなかった――カミュは、思い出を語ることしかしなかった。
カミュは――そして、氷河も――二人の未来には、戦いと別れ、そして 消滅しかないと感じているから、彼等は 思い出をしか語れないのだ。
未来を語ることのできない悲しい師弟。






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