「重病人?」
瞬先生は、テーブルの上に たくさんの薬草を並べて、どうやら その整理中だったようです。
手にしていた薬草を一束 紐で きゅっと結ぶと、瞬先生は無駄のない動きで ドアの方を振り返りました。
薬草を乾かすためなのでしょう、天窓が開いていて、小屋の中は明るい光に満ちています。
氷河は、けれど、それを瞬先生自身が輝いているのだと思いました。
理性(らしきもの)に、それは錯覚だと訂正されても、氷河は、その訂正を受け入れる気にはなりませんでした。
それくらい瞬先生は――たとえて言うなら、ひらひらと輝く春の陽光のような、温かく優しく咲く春の花のような、実に素晴らしい美少女だったのです。

「瞬先生。この猫、歩けないんだってー」
ヤコフが、氷河のことを紹介もせず、籠の中の子猫を両手で取り出して、テーブルの上に載せます。
歩けない猫は、ぐったり。ヤコフに為されるがまま。
美少女の名医は、心配そうな目をして、力の入らない子猫の手足を確かめ始めました。
瞬先生は、美少女だけあって、牛は無理でも 小さな子猫は診ることができるようです。

瞬先生に紹介してもらえなかった氷河は、けれど、気の利かないヤコフに腹を立てるようなことはしませんでした。
もともと大雑把な性格だから――というのもありましたけれど、ヤコフが氷河より病気の子猫を優先したために、瞬先生が氷河に注意を払うことなく 猫の診察に集中し、そのおかげで、氷河も 心置きなく、美少女の名医の観察に意識を集中することができましたから。
猫のことは瞬先生とヤコフに任せて、氷河は じっくり たっぷり ゆっくり 存分に遠慮なく、瞬先生を視線で診察させてもらったのです。

瞬先生は、どう見ても10代半ば。
白く滑らかな肌と、澄んだ緑色の宝石のように温かく輝く瞳の持ち主でした。
瞼が伏せられると、影を落とす長い睫毛。
すうっと通った鼻筋に、薔薇の花びら色の唇。
猫の手足に触れる、白く細い指。
身に着けている衣服は、貴婦人のドレスではなく、刺繍が施された村娘たちのスカートでもなく、袖口が広がらないように縫いつけてある医者用の膝までの簡素な長衣――男性医師の衣服でしたが、瞬先生は、文句なしの美少女でした。
氷河がこれまでに見たことのある少女の中では、間違いなくナンバー1で トップ1で ベスト1。
おまけに、
「この子の名前は何ていうんですか? ご飯を食べることはできていました?」
声も甘い。

顔を上げた瞬先生に綺麗な瞳で見詰められ尋ねられ、氷河は一瞬、意識がどこかに飛んでいってしまいました。
瞬先生に腑抜けた阿呆と思われないために、氷河は、飛んでいった意識を すぐに引き戻し、自分の頭の中に戻しましたけれど。
「名前はまだつけていない。ミルクは飲めているが、固形物は食べていないな。俺が こいつを拾ったのは 今から半月くらい前で、その時は まだ目も開いていないチビだったんだ。母猫の姿は見えなくて、このチビだけ。それ以来、今まで、ずっとミルクだけだ」
「最近、どこか寒いところに出掛けました?」
「5日前に、氷が張った北の海に遊びに行った。やけに張り切って、氷の上を滑って遊んでいたんだが……その翌日からだ。こいつが 歩けなくなったのは」
「ああ、それで」

瞬先生が、得心したように頷きます。
美少女の名医にうっとりして猫のことを忘れかけていた氷河は、さすがに ちょっと反省して、そして、今になって かなり本気で心配になってきました。
「寒いところに連れていったのが よくなかったのか? このまま、一生 歩けないなんてことにはならないだろうな? そんなことになったら、俺は――」

猫が歩けなくなったら、それは猫にとっては 死を意味することでしょう。
寝た切り猫に 氷河が餌を与え続けることはできますが、自分で餌を取れない猫は、猫の誇りを持ち続けることができないに決まっています。
飛べない豚は ただの豚ですが、歩けない猫は、ただの猫ですらないのです。
氷河の顔が曇ったのを見た瞬先生は、そんな氷河の手を取って、自分の手で そっと包み、氷河を励ましてくれました。

「大丈夫。歩けるようになりますよ。安心してください」
猫の一生がかかった一大事だというのに、氷河の意識がまた どこかに飛んでいきそうになります。
つくづく人間というものは、自分第一の身勝手な生き物です。
「猫も人間と同じで、ずっと冷たい物に触れていたら凍傷になるんですよ。この子は、肉球が しもやけになってしまったんです。そして ひび割れてしまったところを舐めているうちに、ばい菌が入ってしまったんでしょう」
「肉球が しもやけ……」
そんなことがあるなんて、氷河は考えたこともありませんでした。
ですが、そんなことも あるようです。

「ええ。綺麗に洗って、しばらく舐められないように 布で覆っておきましょう。邪魔に思って、布を外そうとするでしょうが、我慢させてくださいね。1週間くらいは我慢が必要かな」
「殴ってでも、我慢させる」
「殴るのは かわいそうだから、だめ」
「は……」
『かわいそうだから、だめ』なんて、可愛らしい様子で言われて、氷河の意識は 今度こそ大気圏外に飛んでいってしまいました。
宇宙に飛んでいった氷河の意識を元の場所に戻してくれたのは、美少女の名医です。

「それから、この子は 猫ではなくライオンです」
「へっ」
「きっと、かなり大きくなりますよ」
「は」
大雑把が売りで、ほうれん草が小松菜でも、生クリームがバタークリームでも、ブタがイノシシでも、ヒツジがヤギでも、大して気にしない氷河ですが、猫がライオンだったのには さすがにびっくりです。
子供の頃は大差なくても、猫の成獣とライオンの成獣は 全く違いますからね。

「だから、こいつは 木登りがヘタだったのか。猫のくせに 全然 木登りができなくて、不器用すぎると心配していたんだが」
猫が木登りできないと、敵に襲われた時、安全な木の上に逃げることができません。
けれど、ライオンなら、木の上に逃げなくても 何とかなるでしょう。
足のことと木登りのこと。
瞬先生のおかげで、心配事が一度に二つ消えて、氷河は ほっと安堵し、とても喜びました。
そんな氷河に、瞬先生が尋ねてきます。
「ライオンが恐くはないんですか」
「こいつは、まだチビだし」
「このまま飼い続けるの?」
「元気になるまでは。それが拾った者の務めだし、しもやけをさせた者の責任だ」

氷河が そう答えると、瞬先生は嬉しそうに微笑んで、
「この子の足の布の覆いを交換しなければなりませんから、1日1回は、うちに いらしてくださいね」
と言ってくれました。
自分だけに向けられた瞬先生の優しい微笑に出会った途端、氷河の意識は、今度は どこか異次元まで飛んでいってしまったようでした。






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