子猫 改め 子獅子には、ナジャという名前がつけられました。 氷河の国の言葉で“希望”のことを“ナディエージダ”というのですが、その頭の部分なので、“ナジャ”は“希望の始まり”という意味。 瞬先生がつけてくれたのです。 瞬先生がつけてくれたのですから、もちろん、とてもいい名前です。 ナジャの 肉球カバーの交換のために、氷河は毎日 瞬先生の診療所に通いました。 そして、何度も意識を あっちこっちに飛ばしながら、楽しい時間を過ごしました。 ナジャが すっかり元気になって歩けるようになってからも、健康診断のために 毎日 通い続けました。 なにしろ、氷河は病気になりたくても病気の方が逃げていくくらい丈夫な身体の持ち主だったので、ナジャ以外に、瞬先生の診療所に行く理由を見付けられなかったのです。 「ナジャちゃんは、今日も元気ですね」 瞬先生に そう言ってもらえたら、それで診察は終わってしまうので、瞬先生と一緒にいるために、氷河は診療室のお掃除をしたり、診療所の建物の修繕をしたり、瞬の薬草採りのお手伝いをしたりして、時間を過ごしました。 大雑把な氷河は、お城の自分の部屋の掃除をしたこともなかったのですが、瞬先生と一緒にする お掃除は楽しかったので、氷河は一生懸命 瞬先生のお手伝いをしました。 瞬先生――面倒なので“先生”を取ります――は、毎日、ナジャを診療所に連れてくる氷河を、とても優しい人だと思っているようでした。 そして、氷河は貧しくて診療代を払えないので、お掃除や薬草採りの手伝いをしてくれるのだと誤解しているようでした。 氷河は迂闊なので、診療代のことに考えが及んでいないだけだったんですけれどね。 そして、氷河は大雑把だったので、瞬の誤解に気付いていませんでした。 ただ、そんなふうに迂闊で大雑把な氷河にも、瞬の診療所に通ううちに、瞬が綺麗で可愛いだけでなく、優しく清らかな心の持ち主でもあることは、ちゃんとわかったのです。 姿が綺麗で可愛くて、心が清らかで優しくて、頭もよくて、お医者様という“職”も持っていて、健康。 話をしている時に 嫌な気分になることが一瞬もないのは、瞬の優しさ賢さが 装ったものでも、付け焼刃でもないから。 氷河は大雑把な男でしたが、瞬が素晴らしい人だということは、ちゃんと感じて、理解もできていました。 氷河はすっかり瞬に夢中でした。 氷河は 大雑把で いい加減なので、対峙する人間の身分や財産は気にしません。 瞬が なぜ一人で森の奥の小屋で暮らしているのかも気にしません。 大事なのは、瞬が綺麗で優しいこと。 他はどうでもいいことなのです。 こういう ご時世ですから、瞬のように綺麗で優しい人間が 森の奥に ひっそりと隠れて暮らしているのには 深い訳があるのでしょうが、呪いをかけて 誰かを絶世の美少女にする魔法使いや邪神はいないでしょうから、瞬が本当は醜い老婆ということもないでしょう。 そういう心配は不要です。 瞬は老人にも子供にも動物にも女性にも人気があり、好かれていましたが、若い男と若くない男たちにも 大層 好かれているようでした。 瞬の診療所前の広場には いつも、病人でも怪我人でもない男たちが ごろごろいました。 ナジャがいなかったら、氷河も彼等と同類。 同類だから、彼等が危険な存在だということが、氷河には よくわかっていました。 だから。 大雑把な氷河は、大雑把なりに色々なことを考え、のんびり構えているのは危険だと判断し、速やかに 行動を起こしました。 つまり、瞬の診療所に まだ誰も集まってきていない早朝に出掛けていき、ちょうど地上に お陽様が顔を覗かせた頃、その光の中で、瞬に、 「一生、俺と一緒にいてください。俺と結婚してください」 とお願いしたのです。 朝の陽光の中で、瞬の瞳は 一瞬 眩しいくらいに輝いたのに、瞬の答えは、 「一生、氷河と一緒にいられたら、それはとても嬉しいし、そうしたいと思うけど、僕は氷河と結婚することはできません」 でした。 大雑把な氷河は――大雑把な氷河でも、『一生 一緒にいたいけれど、結婚はできない』という瞬の答えを喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、大雑把に すぐ判断することができませんでした。 一緒にいてもいいけれど、結婚はできないということは、独占契約を結ぶことはできないということ。 病人でも怪我人でもないくせに 瞬の診療所の周りをうろうろしている若い男たちと若くない男たちを撤退させるために 瞬に求婚した氷河としては、瞬のその答えでは、“100パーセント目的達成”という評価を下すことができなかったのです。 「一生 俺と一緒にいることはできるのに、どうして結婚はできないんだ?」 氷河が尋ねると、瞬は 悲しそうに、その訳を氷河に教えてくれました。 それによると、瞬は本当は 正真正銘の男の子だったのですが、ポリポリ・コーレという悪い魔女に呪いをかけられて、少女の身体にされてしまったのだそうでした。 ポリポリ・コーレの魔女が なぜ 瞬に そんな呪いをかけたのか、その訳はわかりません。 もしかしたら、ただの気まぐれだったのかもしれません。 瞬は、ある島で 何年間も 立派な闘士になるための修行に励んでいました。 そして、瞬を指導してくれていた師に、 「おまえは、人間界で五指に入る力を持つ強い闘士になれた」 と言ってもらえた矢先、突然 ポリポリ・コーレの魔女がやってきて、瞬の身体を少女のそれに変えてしまったのだとか。 「僕は、必ず 立派な闘士になって帰ると、故国の兄に約束して 修行地に向かったんです。なのに、こんなことになってしまって……僕は もう 兄の許には帰れません。それで、故国から遠く離れた北の国の この森で、ひっそりと暮らしていたんです」 そう言って、瞼を伏せ 肩を震わせて嘆く瞬の、なんて頼りなげで悲し気なこと。 氷河は、瞬の その細い肩を抱き寄せ、抱きしめ、そんなに悲しまないでと 慰め、力付けてやりたい衝動にかられたのです。 いいえ。 それは 衝動ではなく――激しく急激な情動ではなく、もっと 穏やかで優しい、人間として ごくありふれた普通の気持ちだったかもしれません。 まだ目も開いていない小さなナジャを、このまま放っておくわけにはいかないと感じて、お城に連れ帰った時の気持ちに似ていましたから。 数ヶ月前 ナジャを拾った時には ほとんど ためらいを感じなかった氷河が、今日は瞬を抱きしめることに ためらいを覚える。 その訳は――その訳は、なかなか複雑でした。 今、氷河の目の前にいる瞬は 途轍もない美少女で、理不尽な力に苦しめられ、現在の自分の境遇を嘆き悲しむ哀れな存在です。 けれど、それは、ポリポリ・コーレという名の悪い魔女に呪いをかけられたからで、本当の瞬は 人間界で五指に入るくらい強く たくましい闘士だというのです。 氷河は、自分が人間界で何番目くらいに強いのかなんてことは知りませんでした。 が、さすがに人間界で五指には入っていないでしょう。 大雑把に見積もって、30位以内くらいかなーと、氷河は思っていました。 人間界で五指以内なら、本来の瞬は 氷河よりずっと強いのです。 ギリシャのヘラクレス、北欧の雷神トール、ケルトのクー・フーリン、そして最強の円卓の騎士ランスロット。 氷河は、人類屈指と言われる英雄たちの姿を脳裏に思い描き(といっても、氷河は それらの英雄に実際に会ったことはありませんでしたが)、こんなに可憐な美少女の瞬が 実は それらの英雄たち同様、筋骨たくましい巨漢の英雄なのだと思うと、自分が瞬を抱きしめ力付けてやるという行為が、ひどく滑稽なことに思えたのです。 そして 瞬も――本当は 筋肉むきむきの巨漢が、呪いのせいで か弱い美少女にされてしまっているとはいえ、せいぜい人類30位以内程度の男に抱きしめられ 力付けられるなんて、そんなのは侮辱としか思えないのではないでしょうか。 もし そうなのだとしたら、へたな励ましは、かえって瞬を傷付けることになります。 そんなこんなを考えると、氷河は どうしても、悲しむ瞬を抱きしめ力付けてやることができなかったのでした。 今は美少女の姿をしている瞬を 抱きしめてやることもできず、本当は巨漢の豪傑なのだからと放っておくこともできず、かといって、呪いを解くために力を貸そうと 雄々しく宣言することもできず。 氷河は、瞬の前で、文字通り、進退窮まってしまったのです。 こればかりは、大雑把で売っている氷河にも、大雑把に考え、大雑把に判断し、大雑把に決めてしまうことができませんでした。 綺麗で可愛らしくて 清らかで優しい瞬を好きな気持ちは真実のものだから――だから なおさら、氷河は、適当に大雑把に決めてしまえなかったのです。 大雑把な氷河は、大雑把なりに真剣に、今の自分の真情を瞬に打ち明けました。 |