「瞬。おまえはナジャを助けてくれた。この辺りの病人や怪我人は皆、おまえに救われて感謝している。健康な者たちにも、おまえは誰にでも親切で優しくて、皆が おまえに好意を抱いている。俺は、おまえの清らかで優しい心に惹かれて、おまえを好きになった。それは間違いない。好きだ。俺は おまえが本当に好きだ」
「氷河……」
二度と故国に帰れないことを嘆いていた瞬が、氷河の真剣な告白に胸を打たれたような眼差しで、氷河の顔を見詰め――そして、瞬は また悲し気に その瞼を伏せてしまいました。

「だが、おまえが 元の――人間界で五指に入るほどの豪傑に戻った時、俺は自分が この恋心を抱いたままでいられるかどうか、自分のことなのに、全くわからないんだ。嫌いになることはないが、おまえを抱きしめて 守り庇いたいと思う、この気持ちは消えてしまうかもしれない。おまえへの恋は、友情になってしまうかもしれない。おまえが、呪いで変えられてしまったのは姿形ばかりで、その心は変わっていないのだろう。呪いが解けても解けなくても、俺が惹かれた おまえの優しい心に変わりはないと思うのに、俺は自分の気持ちが変わらない自信がないんだ。それは 俺自身のことなのに」

つらい口調で訴える氷河に、瞬は切なげな微笑を浮かべ――瞬は、氷河のために 笑いたくもないのに微笑を作ってくれたのでしょう。
氷河を苦しめないため、氷河が自分自身を責めることがないように。
瞬は切なげに微笑みながら、
「それが普通だと思います」
と言った。

人に『普通』と評されるのは初めてで――氷河は いつも『変』とか『おかしい』とか『全然 普通の王子様らしくない』とか、そんなふうに言われてばかりいましたので――『普通』という言葉に、氷河はとても戸惑いました。
『普通』
瞬は、どういう気持ちで その言葉を口にしたのでしょう。
楽しい気持ちで言ったのでないことだけは確かです。

「それが普通です。氷河は、少女にされた僕に出会って、少女の僕に親切にしてくれた。少女にされた僕しか知らないんですから、もし僕が元の僕に戻れたとして、その僕に 氷河が 今と同じ気持ちを持って接してくれるかどうか、そんなことが可能かどうか。それはきっと、誰にもわからないことでしょう。僕はただ……」
「瞬……」
瞬の瞳は潤んでいます。
瞬の瞳からは、今にも涙が溢れ出そうでした。

「僕はただ……どうして、あの魔女が 僕を変えてしまったのかが わからなくて――どうして、元の僕じゃ駄目だったのか、どうして 生まれたままの僕じゃ駄目だったのか、元の僕の何がいけなかったのかが わからなくて、もし 僕が本当の僕に戻ったら、氷河は もう僕を好きでいてくれなくなるんだと思ったら、生まれたままの僕は、きっととても悪い存在だったんだと思うしかなくて、でも、僕は……でも 僕は……今の僕は 本当の僕じゃないんです……!」
「瞬……!」
本当に、ポリポリ・コーレの魔女は、なんて残酷なことをしてくれたのでしょう。
瞬の瞳からは、ぽろぽろと透き通った真珠のような滴が零れ落ち、北の国の早朝の凍った大地に沁み込んでいきました。

北の国の冬の季節の朝方は、どんなにお天気がよくて 雪が積もっていなくても、とても寒いのです。
短い下草が必死に土に貼りついているだけの地面は、霜柱で少し盛り上がっています。
瞬の涙の滴を受けとめた北の大地は、そこだけ 霜柱が解けて、涙の大きさの小さな穴が ぽっかりと開きました。

瞬の悲しみの涙は、北の国の冬の朝の寒さにも負けないくらい熱かったのです。
悲しみや苦しみの感情は 大抵は 冷え冷えとしているものでしょうに。
もしかしたら、恋の思いのために?
そう思ってしまった氷河は、うぬぼれが過ぎていたでしょうか。

その時、氷河は、ぼんやりと ガウェイン卿と 彼の妻ラグネルのエピソードを思い出したのです。
二目と見られぬほど醜い老婆の姿をした妻ラグネルと、若く美しい女性の姿をした妻ラグネル。
一日の半分しか美しい姿でいられないのなら、(しとね)を共にする夜にこそ 若く美しい姿でいてほしいと望むのは、男としても夫としても 当然のことです。
昼間の間 醜い老婆の姿でいるのなら、アーサー王のように妻に不貞を働かれる心配もなくなって一石二鳥。

その一石二鳥を捨ててまで、ガウェイン卿がラグネルに『あなたの したいようにしていい』と告げたのは、ガウェイン卿が進歩的な平等主義者だったからでも 女権主義者だったからでもなかっただろう。
ガウェイン卿はただ、妻ラグネルの美しさと賢明に心惹かれ、彼女の切ない懇願を退けることができなかっただけなのに違いない。
そう、氷河は思ったのです。

女性の自由意思だの、男女平等だの、そんな大層な理屈や理想を いくら並べ立てても、人の心を本当に動かすことはできません。
表向きだけ、『その通りだ』と ご立派な理想に賛同してみせる人間はいるかもしれませんが、そんな人は、自分の都合や立場が悪くなれば、すぐに態度を変えてしまうに決まっています。

人の心を本当に変えるのは、愛だけです。
大切な人の幸福を望む強い思いだけなのです。

今の氷河がそうでした。
氷河は、瞬の瞳から零れる涙の滴を見た途端、自分の恋はどうでもよくなってしまったのです。
瞬の幸福のためなら、瞬を笑顔にするためになら、何でもしたいと氷河は思いました。
瞬が筋肉もりもりの巨漢の豪傑に戻ったって、そんな瞬に恋し続けたって、恋が友情に代わってしまったって、そんなことは どうでもいいことなのです。
瞬が 元の自分に、本当の自分に、生まれたままの自分に 戻りたいと言っているのです。そう望んでいるのです。
氷河は、絶対に、その望みを叶えてやらなければなりませんでした。
だって、氷河は、今現在 瞬が大好きで、瞬が幸せになることを、心から望んでいましたから。

二人の望みを叶えるために――氷河は、瞬に尋ねたのです。
「おまえの呪いを解くにはどうすればいいんだ?」
と。
「俺の命を捧げればいいのか? ポリポリ・コーレの魔女を倒せばいいのか? それとも、聖杯が必要なのか。呪われた13番目の席に座ればいいのか。俺の命で済むものなら、そんなものは すぐにおまえにくれてやるが、もっと難しいことでも、どれほどの苦難でも、必ずや 成し遂げて、俺がきっと おまえの呪いを解いてやるぞ!」

氷河は大雑把な男ですから、後で辻褄合わせに苦労するような嘘をついたり、みっともない言い訳を考えなければならなくなるような空約束をしたりはしません。
氷河が言うことは、いつも本心で、本音で、本気。
行く手にどんな苦難が待ち受けていても、必ず 瞬の呪いを解く。
氷河の その宣言も もちろん、本心で、本音で、本気でした。

瞬が、そんな氷河を、あの綺麗に澄んだ瞳で 見上げ、見詰めます。
涙で濡れていた瞳は、氷河の大胆で大雑把な宣言に驚いたせいで、すっかり乾き――いいえ、瞬の瞳は今、別の涙で濡れていました。
それは、悲しみの涙よりずっと熱い 喜びの涙。
そして、悲しみの涙よりずっと冷たい 苦しみの涙でした。

「氷河、ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ああ、僕、どうしたらいいの……」
瞬の泣き方が、さっきとは随分 違います。
瞬は、両手で 自分の顔を覆い、小さく 頭を左右に振りながら、肩を小刻みに震わせて、さめざめと――あえて、この表現を用いますが、“汚れを知らぬ清らかな乙女のように”泣き出したのです。
瞬の呪いを解いて瞬を喜ばせ、瞬を幸福にするつもりだった氷河は、そんな瞬を見て、大いに慌てました。

喜んでくれると思っていた人が、『ごめんなさい』を繰り返して泣き出したら、それは誰だって驚き呆れますよね。
氷河も驚き呆れました。
こういうところは、氷河も普通だったのです。
「瞬。泣かないでくれ。どうしたんだ。まさか呪いを解く方法はないというんじゃないだろう? 解く方法のない呪いをかけることは、神にだって許されていないはずだ」
それ以前に、神は呪いなんて かけませんけれどね。
神が人間に下すのは、神託と予言だけです。
幸い(?)、瞬の呪いには ちゃんと解く方法があるようでした。

瞬が急に乙女のように泣き始めたのは、呪いを解く方法がないからではなかったのです。
そうではなく――。
「ポリポリ・コーレの魔女が僕にかけた呪いを解く条件は、誰かが僕に真実の愛を捧げてくれることです。氷河、どうしよう。僕、呪いが解けて、元の僕に戻ってしまいました。ごめんなさい……!」
「へ……? 呪いが解けた?」

それは 混み入って 難しいことではなかったのですが、大雑把にできている氷河の脳と心には、状況把握と その整理に少々 時間がかかりました。
時間がかかるのは当然です。
呪いが解けたという瞬の見た目は 全く変わっていない――瞬は、筋肉もりもりの巨漢にも、筋骨たくましい豪傑にもなっていなかったのですから。

もともと女性の服ではなく男性の医師用の衣装(洒落ではありませんよ)を着ていたせいもあって、本当に全く何も変わっていない――いいえ、どう見ても確実に、瞬は 少女だった時より可愛らしさを増していました。
もしかしたら、恋の思いのせいで。
そう思ってしまった氷河は、うぬぼれが過ぎ、楽天が過ぎたでしょうか。
けれど本当に、瞬は今、確かに、人間界で五指に入る――もとい、人間界一 可愛らしい人間でした。

ポリポリ・コーレの魔女が瞬に呪いをかけたのは、もしかすると男の子のくせに可愛らしすぎる瞬を妬んでのことだったのかもしれません。
だとしたら、ポリポリ・コーレの魔女の気持ちはわからないでもない。
――と、氷河は思ったのです。
それくらい、少年に戻った瞬の様子は可愛らしかったので――その可愛らしさの前に、瞬に対する氷河の恋心は、友情に変わっている余裕など毫もありませんでした。






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