家族面談は、ナターシャが、自分の名と年齢を言うところから始まった。 ナターシャの一人称は、『わたし』ではなく『ナターシャ』。 面談の時だけでも『わたし』と言うようにさせようかとも思ったのだが、結局 瞬はそうしなかった。 そうした方がいいのだろうことは わかっていたのだが、瞬は そうすることができなかった。 ナターシャは、自分の名前を持っていなかった頃は、自分のことを『あたし』と呼んでいたのだ(瞬は、氷河から そう聞いていた)。 だが、氷河に『ナターシャ』という名をもらってから、自分を名前で呼ぶようになった。 『ナターシャ』は、パパからもらった大事な名前だから。 瞬は、それを、『お受験だから』という理由で やめさせる気にはならなかったのである。 面接官の最初の質問は、 「ナターシャちゃんは、お父様が好きですか」 だった。 訊くまでもない質問。 だが、ナターシャは どうやら、その質問が嬉しかったらしい。 嬉しそうに、彼女は答えた。 「大好き!」 と、力強く。 「どんなところが好きか、教えてください」 「ハイ! あのネ、ナターシャのパパは、光が丘公園で いちばんカッコいいパパだよ! ナターシャといっぱい遊んでくれて、みんながナターシャのパパは優しくてカッコいいって、羨ましがるんダヨ。パパのタカイタカイは世界一 高いヨ。パパは正義の味方で、強くて、いつも マーマとナターシャを守ってくれるノ。それで……それでネ、パパのいちばん偉いところは、マーマをナターシャのマーマにしてくれたことダヨ。マーマのおかげで、ナターシャは 可愛い いい子のナターシャになるんダヨ!」 ナターシャの瞳が きらきらと輝いているのは、パパの自慢ができて嬉しいから。 なるほど、ナターシャには、この面談は楽しいレクリエーションだった。 「では、お母様のことも好きですか」 「当ったりまえダヨ! マーマは、世界でいちばん綺麗で優しくて強くて、何でも知ってるマーマダヨ。ナターシャが可愛いナターシャでいる方法も、ナターシャが いい子になる方法も教えてくれる。パパの好みのタイプはマーマだから、ナターシャもマーマみたいに強くて優しくて綺麗でお利口さんのナターシャになるヨ!」 長い付き合いの仲間たちは、ナターシャのパパ自慢もマーマ自慢も 楽しげに笑って聞いてくれるが、対峙する相手の人となりを見定めようとしている面接官に、ここまで手離しの家族礼賛は どう判断されるのだろう。 ふと 瞬の脳裏をかすめた その疑念に答えるかのように、右端に座っている面接官が ふいに口に開いた。 「はきはきした お嬢さんですね。普通の子供の10倍の量の答えが返ってくる」 そう言って、彼は 微かに苦笑とわかる笑みを口許に刻んだ。 普通の子供は、『お仕事を頑張っているところ』とか『優しいところ』とか、簡潔に答えているのだろう。 そこに面接官が質問を重ねて話を広げていくのが、お約束の展開。 ナターシャの場合は、突っ込む必要がないので、微苦笑が洩れることになったようだった。 中央の面接官が、今度は氷河の方に顔を向ける。 彼は、地上で最も強い男の一人である水瓶座の黄金聖闘士の機嫌の悪そうな無表情を恐れる様子もなく(面接官としては当然なのだが)、氷河に質問を投げてきた。 「お父様は、ナターシャちゃんの美点はどういうところだとお思いですか」 「ナターシャの美点だと?」 氷河の答えは、瞬が恐れていた通り。 ほぼ瞬の予想通りの、ひどいものだった。 「人を見て評価するのが 面接官の仕事だろうに、そんなことも わからんのか。ナターシャには美点しかない」 面接官は、ナターシャの美点がわからないから、氷河にそれを訊いたわけではない。 そのことは氷河もわかっているのだろうが(多分)、氷河的には、『ナターシャの美点はどこか』と問われるより、人を見て評価するのが仕事の面接官が ナターシャの美点に言及し、褒めた上で、父親の意見を求めるくらいの芸を見せてほしかったのかもしれない。 喧嘩を売っているとしか思えない氷河の返答に、三人の面接官たちの こめかみがひきつる。 「マーマ、ビテンってナーニ?」 このタイミングで 横から口を挟んでくるナターシャが、瞬には、心優しい天使に思えたのである。 氷河のどうしようもない返答で、逆に 肝が据わった瞬は、氷河以上に ひどい対応をした。 瞬は、つまり、面接官を無視したのである。 面接官を無視して、愛娘の相手を始めた。 「幼稚園の先生は、ナターシャちゃんの いいところは どういうところですかって、氷河に訊いたんだよ」 「ナターシャのいいトコロ?」 「うん。あんまり いっぱいありすぎて、氷河はうまく答えられなかったみたい」 「ウフフ。パパのビテンは、マーマの言うことを聞いて、ピーマンも食べられるようになったことダヨ」 「氷河は、ナターシャちゃんのお手本パパになりたいって思ってるからね。氷河は偉かったね」 「ウン! パパは とっても いい子でリッパなパパダヨ!」 ピーマンを食べられるようになったと、ほぼ初対面の他人の前で 幼い子供に褒められても、氷河は恥ずかしがることもしない。 氷河は むしろ、ナターシャに褒められて得意顔だった。 面接官に褒められるより、ナターシャに褒められる方が、氷河は嬉しいに決まっている。 「あー、いや、うん。ですから、つまり、げほげほ、げふん!」 面接官を無視して 勝手に話を進めていく家族に負けてなるかと思ったわけでもあるまいが、奇妙に声を張り上げて、ほぼ意味のない接続詞と擬音を並び立て、右側の面接官が ほのぼの家族のやりとりに割り込んできた。 「お父様のご趣味は何ですか!」 力みすぎて、ひっくり返った声。 氷河が その質問に答える気になったのは、その質問に答えることで、ナターシャの自慢ができると踏んだからだったろう。 「最近は、仕事の方が趣味のようなものだが……。今は、ナターシャが最も可愛く見える服の研究と開拓が いちばんの趣味かな。ナターシャは 見た目も仕草も可愛くて、何を着ても似合うので、いつも迷う」 パパの隣りで、ナターシャは ご満悦。嬉しそうに にこにこしている。 それはそうだろう。 大好きなパパに、可愛い可愛いと褒めてもらえたのだから。 「お母様は、そういったことには ご意見は述べられないのですか」 そう問うてきたのは、左側の面接官。 瞬に答えてほしい質問だったらしいが、その質問に答えたのも氷河だった。 ナターシャのマーマを見る彼の目が気に入らなかったらしい。 「瞬の役目はどちらかというと、安全性と機能性のチェックだな」 「マーマはお医者様なんダヨ。着心地が悪くて動きにくい服は、身体を歪めて、姿勢も悪くするヨ。マーマは、ナターシャの美容と健康と安全の ちーふ えぐぜくてぃぶ でぃれくたーダヨ」 難しい言葉を使いたいナターシャは、偉そうな おじさんたちの前で、パパに教えてもらった難しい言葉をつかえたので 上機嫌。 彼女の笑顔は、いよいよ明るく その輝きを増していった。 「確かに美しいお母様だ。しかも、大きな総合病院に医師としてお勤めとは。『女、氏無くして玉の輿』と言いますが、お宅は お父様の方が玉の輿に乗ったわけですね」 「男も美貌が物を言う世の中になりつつあるというわけか。嘆かわしい話だ」 「日本のオウエン・テューダーというところですか」 三人の面接官が、願書の父親の職業欄を見て そんな発言になっていることは、改めて確かめるまでもないことだった。 声も潜めずに、バーテンダーごときが オウエン・テューダーなど知る訳がないと決めつけている態度。 おそらく、面接官の目的は、氷河もしくは瞬を怒らせることだった。 そうして、子供の両親の自制心のほどを確認するのが、この挑発の目的。 だとすれば、彼等は その方法を誤ったとしか言いようがない。 氷河は、オウエン・テューダーを知っていた。 バーには色々な人間がやってくる。 車が趣味の人間、ゴルフが趣味の人間、観劇や骨董品収集に 湯水のように金を使っている人間もいる。 多種多様な客たちの中には、もちろん歴史オタクもいるのだ。 氷河は、自分が口をきくことは滅多にしなかったが、バー以外の場所では鬱陶しがられて 話すことのできない趣味人たちの蘊蓄を、毎夜 聞かされているのだ。 あらゆる分野のマニアックな知識が、氷河の中には蓄積されていた。 オウエン・テューダー。 彼は、もともとは、イングランド王ヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアに仕えていた下級貴族だったが、その美貌で王の未亡人の心を射止め、秘密結婚で子供を成した、いわゆる逆玉男である。 その結果、彼は、英国のテューダー王朝の開祖ヘンリー7世の祖父になった。 「オウエン・テューダーはウェールズ王家の血を引いていた。美貌だけの男ではなかったろう。ひがまぬことだ。まあ、貴様等の ご面相では、美貌に恵まれて出世した男を ひがみたくなるのも致し方ないとは思うが」 バーテンダーごときが、英国テューダー王朝成立の歴史を知っている。 しかも、その知識で、バーテンダーごときに 高尚な教育者が貶められた。 自制心のない面接官たちは、あっさり 冷静さを失った。 「な……何だ、その口の利き方はっ」 「何様のつもりだ! 髪結いの亭主の分際で無礼な!」 「こんな礼儀知らずな親に会ったことがない!」 「氷河っ!」 氷河としては、口の利き方を知らない無礼で失礼な面接官たちが、無礼で失礼なことを言うから、自分も言い返してやった――くらいの認識なのだろう。 氷河を怒らせるつもりで 自分たちの方が激昂してしまった面接官たちが お粗末すぎたといえば その通りなのだ。 しかし、瞬は、ここで その点を指摘して、火に油を注ぐわけにはいかなかった。 ともあれ、ナターシャの初めての お受験の家族面談は失敗したのだ。 ただの失敗ではない。大失敗である。 大失敗の大混乱。破茶滅茶の ぼろぼろ。 それが、動かし難い事実だった。 「このあと まだ、8組も面談が残っているんですよね? 我々ばかりに時間を割いていただくわけにはいきませんので、我々は ここで失礼します。お時間を割いていただき、どうもありがとうございました!」 瞬は、怒れる面接官たちに ひたすら頭を下げ、それから、ナターシャを抱きかかえ、氷河の襟首を引っ張るようにして、亜光速で 面談室から逃げ出したのである。 |