「行きたい時代があるんです。僕を運んでくれませんか。僕が13歳だった頃に」
ヘカテの案内がなくても、時の神クロノスの許に行くことは、今の瞬には容易だった。
問題はクロノスが呼びかけに答えてくれるかどうか。
なにしろクロノスは、時間の感覚が人間とは全く異なるのだ。
彼からの返答は、(瞬の主観で)15分もの時間が過ぎてから、瞬の許に届けられた。
おそらく、最初は答えないつもりだったのだろう。
だが、最終的に、クロノスは己れの好奇心に負けてしまったようだった。

「なぜだ。おまえにとって、あの時代は、最も輝かしい、最も後悔のない時代だろう。変えたいことも、取り戻したいものもない、美しい日々。おまえたちの記憶の中に、最高に美しい状態で刻み込まれていて、再度 見返す必要もない時のはずだ」
「……」
クロノスの指摘は、ある面で正しい。
そして、ある面で、大きな誤謬だった。

アテナを信じ、戦い、勝利し、地上の平和を守った。
その行為に後悔などあろうはずがない。
だが、そのために払われた犠牲の数、大きさも桁違い。
取り戻すことのできない命、取り戻したい命の犠牲も、瞬の人生においては、あの美しい時代にこそ、最も多く集中していた。

黙り込んでしまった瞬に、その心を語らせることはできないと、クロノスは判断したのだろう。
ならば言動から、瞬の心を推し量るしかない。
クロノスが瞬の願いを叶えてくれたのは、つまり そういうことだったに違いない。

「まあ、よかろう。昨日今日の付き合いでもなし。おまえの望みを叶えてやろう。わかっているだろうが、軽率なことをして過去を変えると、その後の世界が大きく変わる。良いことをしたつもりが、悲劇を生むこともある。何もするな。ただ見て、聞いて、懐かしむだけ。それ以外のことはしてはならぬ」
「わかっています。ただ見て、聞いて、懐かしむだけ。何もしません」

ただ見て、聞いて、懐かしむだけなら、わざわざ あの時に戻る必要はない。
瞬が何かをしたいと思っていることを、クロノスは察していただろう。
だが、彼は、瞬の望みを叶えてくれた。
何が起きるのか、興味があるから。
時を司る神は、過去を懐かしんだり、悔やんだりすることはない。
だから、彼は、決して取り戻すことのできない時のために、人間が悩み、嘆き、苦しむ様を見るのが楽しい――興味深いのだ。
瞬が その望みを叶えてもらえるのは、自分がクロノスの玩具にされていることを、瞬自身が ちゃんと承知しているから――でもあったろう。
瞬の悲嘆や煩悶は、クロノスの愉楽、悦楽。
それが 時の神というものだと、瞬は割り切っていた。

『何もしない』と答えた次の瞬間、瞬は、彼が13歳だった頃のオリュンポス山にいた。
“ただ見て、聞いて、懐かしむだけ。何もしない”のだから 急ぐ必要はないのに、迷わず ためらうことなく、瞬時にアンドロメダ島に移動する。
瞬が急いだのは、この地上世界に アンドロメダ島が まだ存在するのかどうか不安だったから――だった。






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