インド洋、ソマリア沖。
アンドロメダ島は、まだ そこにあった。
クロノスは どうやら、瞬を、アテナの聖闘士としての瞬の人生が始まった時――瞬が日本に帰国して、仲間たちと共に戦い始めた頃――に 運んでくれたようだった。

アンドロメダ島の西岸に、海に突き出した岬がある。
アンドロメダ島の形ばかりの船着き場と海と夕陽を見ることのできる場所。
十数年前、瞬は、その岬から眼下に臨むことのできる船着き場から船で いったん西に向かい、大陸の空港から東の果ての故国へと飛び立ったのだ。
それが、第二の故郷ともいうべきアンドロメダ島の姿を見る最後の日とも知らないで。

岬の端に、師が立っていた。
懐かしい師。
氷河のそれに似た金髪が、南の海の熱い風を受けて、たなびいている。
振り向けば、やはり氷河のそれと同じ青い瞳が、氷河のそれよりずっと穏やかに温かく、瞬を見詰めてくれるだろう。
実際に師の瞳に出会う前に 小宇宙で、瞬には それがわかった。
温かく、対峙する相手を包み込むような大きな小宇宙。
今の瞬より若いのに、今でも 確かに“師”。
彼を自分より大人と感じるのは、瞬がいまだに弟子を持ったことがないからなのかもしれなかった。

「何者だ?」
懐かしい声。
どう見ても不審な侵入者を誰何するアルビオレの声は、穏やかだった。
瞬が敵意を抱いていないことを わかってくれたのだろう。
瞬の師は、不審者だからといって問答無用で攻撃を仕掛けてくるような短慮な人間ではなかった。

「迷子です」
『不審人物です』と答えるわけにもいかず、つい反射的に そう答える。
実際 瞬は迷子だったかもしれない。
心をどちらに向ければいいのか、心をどこに置けばいいのかがわからず、迷っている迷子。

「迷子?」
怪訝そうな顔。
漂流者でなければ、この島に迷子などやってこれるものではない。
そして、海と砂しかない この島には、見失う道もない。
それでも、瞬が
「はい」
と頷くと、アルビオレは 目許に笑みを刻んだ。
その笑みの余韻を完全に消し去らずに、
「黄金聖闘士か?」
と問うてくる。

瞬が答えられずにいると、アルビオレは、瞬の人となりを見定めようとするように、瞬の目を凝視してきた。
瞬の瞳が、熱く潤んでくる。
それが 何の涙なのか、自分の涙だというのに、瞬には よくわからなかった。
敬愛する師への懐旧の涙なのか、失われた師への哀惜の涙なのか、師に見知らぬ者を見る目を向けられる切なさゆえの涙か、師に敵と疑われることを悲しむ涙なのか。
アルビオレが、瞬の潤んだ瞳に困惑したように、そして、何かを諦めたように、細く長く吐息する。

「未だかつて これほど強大な小宇宙に触れたことはない。もう何年も聖域には行っていないが、今の聖域には これほど強大な力を持つ者がいるのか。驕る者が出てくるのは、仕方のないことなのかもしれんな」
アルビオレのその言葉は、彼がアテナに会ったことがないから――アテナが10年以上の長きに渡って、聖域ではなく日本にいるから――こそのものだったろう。
アテナの小宇宙は、その強さ大きさのみならず、深さ温かさまでが――そもそも小宇宙の質が、人間のそれとは全く違っている。
だが、アテナを除けば、乙女座バルゴの瞬は、おそらく 今 この時代で最も強大な小宇宙を持つ人間だった。

しかし、ここで、
『僕は、この時代の黄金聖闘士ではありません。今 聖域にいる黄金聖闘士たちは、僕ほどではありませんが、それなりの力の持ち主です』と 彼に事実を説明することに、何の意味も意義もない。
意味も意義もないことを、瞬はしなかった。

「先生」
他に呼び方を知らない。
だから、瞬は、その呼び方でアルビオレを呼んだ。
自分を『先生』と呼ぶ者たちの姿と小宇宙の感触を、アルビオレは すべて思い浮かべたのだろう。
常識では考えられないこと。
しかし、アルビオレの反応は、クロノスのそれより はるかに速かった。

「瞬……?」
アルビオレは、瞬の名を呼んでくれた。
「いや、瞬は先月、故国に帰ったばかりで――」
アルビオレの言葉が途中で途切れたのは、瞬が13歳の少年の姿をしていない不思議のためか、あるいは、日本の城戸沙織と彼女に従う青銅聖闘士たちが聖域に反逆したという報告が、この島にも届いていたからか。

聖域への反逆者の一人であるアンドロメダ座の聖闘士の師として、聖域に釈明に来るよう、アルビオレにも命令が下っているはず。
が、もともと現教皇に疑念を抱き、その招集にも応じていなかったアルビオレは、瞬を聖域への反逆者と決めつけてはいないようだった。
今 彼の目の前にいる瞬は、彼の知っている瞬の姿をしておらず、アルビオレとしては、聖域の反逆者と言われても、それは誰のことだと問い返したいところだったろうが。

「そんなはずはない……。だが、その瞳は瞬のものだ」
「僕は未来から来た瞬です。信じてくださらなくても構いません。これは夢だと思ってくださって結構です」
アルビオレが聖域の刺客たちに命を奪われさえしなければ、アンドロメダ瞬とバルゴの瞬を同一人物と認めてもらうことは必ずしも必要なことではなかったので、瞬は、『信じられない』と言われる前に、『信じなくていい』と師に告げた。
瞬に『信じなくていい』と言われたアルビオレは、それで逆に瞬の言を信じる気になった――少なくとも、頭から疑うことはすまいと思ってくれた――ようだった。

「これが夢なら残念だ」
と、彼は言った。
「私の育てた瞬が、私を はるかに凌駕し、こんなにも強く温かい小宇宙の持ち主に成長してくれたのなら、師として、これほど冥利に尽きることはないのに」
「先生……」
それでなくても微妙なものだった師の立場を、更に危険な場所に追い込んだ不肖の弟子に、それこそ弟子冥利に尽きる言葉をかけてくれる師の優しい笑みに出会い、瞬の目の奥は熱くなった。

「何を泣いているんだ。私は夢でも嬉しいのに」
アルビオレの微笑が、ふいに強張る。
聖域にいる教皇は正義だと妄信する輩と違って、洞察力にすぐれ、総合的な判断力も備えているアルビオレは、瞬の涙の意味するところを、的確に読み取ってしまったらしかった。
「そうか。未来のおまえの側に、私はいないのだな」
「先生……」
師の聡明を恨めしく思うのは、瞬は これが始めてだった。
そんなことはないと、なぜ自分は嘘をつけないのか。
自分の融通の利かなさに 腹が立つ。
そんな瞬とは逆に、アルビオレは その事実を知って、かえって 気持ちが落ち着いたようだった。

「だが、これほどの力を持つ おまえがいるのなら、地上の平和は守られているのだろう。おまえを聖闘士に育てあげることで、私は 地上の平和の維持に寄与できたのだ」
「先生は素晴らしい指導者です。先生のご指導を受けられたことは、僕の誇りです」
アルビオレは、自分が自分の信じる正義に殉じる覚悟はできていたのだろう。
未来の瞬の登場は、それが自分の死を知られるものであっても、彼にとっては僥倖であるようだった。






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