その事件が起こったのは――もとい、その現象が生じたのは――次に巡ってきた日曜日。
お昼に 食欲旺盛な客が訪ねてきて、ランチミーティングを催す予定だったので、その日 ナターシャは、公園には行かず、マーマと一緒に たくさんのサンドイッチを作る遊びに興じていた。
フルーツサンド、カツサンド、厚焼きタマゴサンドに ハムとチーズのホットサンドも作った。
ナターシャは、マーマが 手際よく次から次に作っていくサンドイッチを綺麗にお皿に並べて、ふんわりラップをかける役(これが意外に難しい)。

準備万端整ったところで、ナターシャは、最後の大仕事を、マーマに頼まれたのである。
それは、
「ナターシャちゃん。エプロンを外して、氷河を起こしてきてくれる? あと30分もすれば、星矢たちも来ると思うから」
という、とても重要で 非常に困難なお仕事だった。

パパは昨夜、最後の客に 夜の3時近くまで ねばらせたせいで、家に帰ってきたのは朝の5時過ぎ。
パパが眠りに就いたのは、ナターシャが目覚めた頃で、そのパパを お昼前の この時刻に起こすのは至難のわざ。
そんな難しい仕事をマーマに任されて、ナターシャは ちょっと緊張気味だった。
一度 自分の部屋に戻って エプロンを外し、パパの部屋に行く前に、大きく深呼吸。
そうして、部屋を出ようとした時、ナターシャは、ドアの脇の壁にある鏡に、何か妙なもの――自分以外の動くもの――が映ったような気がしたのである。


部屋を出ようとしていた足をとめ、ナターシャは鏡の中を覗き込んだ。
ナターシャの身長に合わせて、低いところに掛けられている高さ1メートルほどの姿見。
ナターシャの背後に、見たことにないカーテンが映っていた。
黒に近い紫の、素材は おそらくシルク。

いったいどうして? と訝りながら、ナターシャは 後ろを振り返ったのである。
そこには確かに、濃い紫色のカーテン――のようなものがあった。
ナターシャが カーテンと思ったものは、実際にはカーテンではなくドレスで――言うまでもなく、ドレスがドレスだけで そこに立っているわけはなく、つまりは ドレスを着たお姫様もいた。
長い黒髪、漆黒の瞳。
ドレスの色も暗いので、可愛らしい お姫様という印象は持てないが、美しい。
もしかしたら マーマより綺麗かもしれないと ナターシャは思い、そう思った自分に、ナターシャはびっくりしてしまったのである。
これはどう考えても、
「ナターシャが お姫様の世界に行くんじゃなく、お姫様の方が、ナターシャのところに来てくれたヨ!」
という状況だった。

このお姫様は、シンデレラ姫ではない。
白雪姫でもない。
どちらかというと、夜のお姫様。黒のお姫様。
ナターシャの知っている どんなお姫様にも似ていなくて、最も似ているのは、白雪姫の魔女の継母。
だが、このお姫様は 間違いなく 白雪姫より綺麗だし、悪い魔女でもない。
悪い魔女が、こんなに綺麗で悲しそうな目をしているはずがない。
悪い魔女が、こんなに若々しいはずがない。
今、ナターシャの前に突然 現れた夜のお姫様は、確実に吉乃より若くて、そして、絶対に いいお姫様だった。
悪い魔女ではない。
だから、ナターシャは、そのお姫様を恐いとは思わなかったのである。
自分の部屋に突然 現れた夜のお姫様に びっくりはしたが、恐いとは思わなかった。
それに、どうやら、夜のお姫様の方も、ナターシャに(?)びっくりしているようだった。

夜のお姫様が、床に片膝をついて、ナターシャの顔を覗き込んでくる。
近くで見ると、なお一層、お姫様の瞳は澄んでいた。
マーマのそれと同じ。
似ていないのに同じ。
ならば、この夜のお姫様は 優しいお姫様に違いないと、ナターシャは思ったのである。

「君は誰?」
声も、話す口調も、マーマと同じ。
だから、ナターシャは、『知らない人には 教えちゃ駄目だよ』と言われていた名前を、ためらうことなく 夜のお姫様に告げた。
「ナターシャの名前は ナターシャダヨ! お姉ちゃんは?」
「僕は……瞬……」
「ナターシャのマーマと おんなじ名前ダヨ!」
同じ目で、同じ声で、同じように優しそうで、その上、同じ名前。
このお姫様が マーマと同じように綺麗なのは、自然で 当然で 当たり前のことなのだと、ナターシャは思ったのである。

「ナターシャちゃんのママも 瞬っていう名前なの?」
「ウン、ナターシャはマーマって呼ぶけど、パパは そう呼ぶよ。それから、星矢ちゃんや紫龍おじちゃんや一輝ニーサンも、瞬って呼ぶ」
マーマと同じ澄んだ瞳のお姫様の唇が震える。
ナターシャが口にした名前が、夜のお姫様に衝撃を与えたようだった。

「星矢に紫龍、一輝兄さん……? そして、ナターシャちゃんのママの名前は瞬っていうんだね?」
「マーマだよ」
「あ……うん。マーマね。じゃあ、もしかして、ナターシャちゃんのパパの名前は……」
「ナターシャのパパの名前は氷河ダヨ。ナターシャは、パパって呼ぶけど、ナターシャのマーマや星矢ちゃんや紫龍おじちゃんや一輝ニーサンは、そう呼ぶヨ」
夜のお姫様の瞳が、一瞬で 涙色になる。
ナターシャの親しい人たちの名前が、彼女を混乱させているようだった。

「ここはどこ。僕は冥界のジュデッカにいたはずなのに――」
「ここは、ナターシャのお部屋だよ。ナターシャとパパとマーマの おうち。お姉ちゃん、迷子なの?」
「ん、うん、そうみたい……」
「お姉ちゃん、ホーコーオンチなんだね。すごく綺麗でカッコいいのに、残念な生き物事典ダヨ。きっと星矢ちゃんが大喜びするヨ!」
「……」

それまでは、混乱しつつも、何とかナターシャとの言葉のキャッチボールを止めずに続けてきたのだろう 夜のお姫様の言葉と声が、ついに途切れる。
ナターシャから投じられた言葉のボールを整理し、組み立て直し、夜の お姫様は この世界の正体を理解しようとしているようだった。

「星矢や氷河が生きているの……?」
「生きてるヨ。あったりまえダヨ」
「あ……会えるの?」
「ウン。今日は日曜日デショ。パパは昨日、遅くまでお仕事で、まだ おねむしてるけど、そろそろ起きる時間なんダヨ。ナターシャが、パパを起こしに行くんダヨ。マーマも、今日はおうちにいるヨ。それで、今日は、星矢ちゃんと紫龍おじちゃんが、ナターシャのおうちに 遊びに来るんだよ」
「星矢と紫龍が遊びに――」
「ウン! 今年の お花見の計画を立てるんダヨ。どこに行くか、どんな おべんとを持っていくか。ナターシャは、パパとマーマと、お花の お寿司を作りたいヨ」
「君のパパは氷河で、マーマは瞬で、星矢と紫龍が遊びに来て――」
「そうダヨ。一輝ニーサンをお花見に呼ぶ方法を、これから みんなで考えるんダヨ。ヤマタノオロチみたいに、お酒でおびき寄せて 退治すればいいって、パパは言ってる」
「……」


夢なら夢でもいい。
生きている皆に会いたい。
“瞬”が そう思ったことを、ナターシャは知らない。知りようもない。
知らなくても、何の問題もない。
“瞬”は そう思ったのだ。
そして、ナターシャ――氷河のマーマの名を持つ少女に尋ねた。

「こ……この部屋、出られるだろうか。僕は 君のパパたちに会えるかな?」
出ようと思えば出られるし、会いたいと思えば 会えるに決まっている。
なのに、どうして この人は そんなことを訊いてくるのだろう――?
ナターシャは、そういう目で“瞬”を見詰め、僅かに首をかしげた。
「君のパパのいるところに、僕を連れていってくれる?」
瞬が頼むと、ナターシャは 笑顔で二つ返事。
「パパとマーマのお部屋に行くヨ。ナターシャ、ちょうど、パパを起こしに行くところだったんダヨ!」

そう言って、部屋のドアを開けたナターシャは、廊下に出るのを ためらっている“瞬”の右手を握りしめた。
小さな手。温かな手。生きている人間の手が、瞬を廊下の奥の部屋に導く。
そこに眠っている人を起こしにきたはずのナターシャは、なぜか音を立てないように気を遣って静かにドアを開け、その人の枕元に駆け寄っていった。
ナターシャが駆け寄っていったベッドには、氷河が眠っていた。

「氷河だ……大人になってる……生きてる……?」
寝衣が苦手なのは、大人になっても変わらないらしい。
その頬に触れようとして、瞬が のばした手の指は、直前で ためらい、戸惑い、動かなくなった。
眠っているはずの氷河が、その手で、戸惑っている瞬の指を掴む。
「あと10分……」
目をつぶったままで そう言って、氷河は瞬の手を自身の口許に運び、震える指先にキスをした。

「パパ。マーマはキッチンにいるヨ。このお姉ちゃんはマーマじゃないヨ」
氷河が間違えたのは、二人の瞬の小宇宙が 全く同じでないにしても、完全な別物ではなかったからだったに違いない。
あと10分 目を閉じたままでいようとしている氷河に、ナターシャがご注進。
「なにっ !? 」
途端に、氷河はベッドの上に跳ね起きた。
そして、
「うぐぅわああぁぁーっ !! 」

そんなつもりはなかったのに、意識せずに しでかしてしまった不貞行為(?)に驚いて、まるで断末魔のそれのような雄叫びが、氷河の喉の奥から噴き出てくる。
聞くに堪えない その雄叫びは、キッチンにいる瞬を 寝室に駆けつけさせるのに十分な異様さと緊急性を備えていた。
「氷河、どうかしたの !? ナターシャちゃんは――」

氷河の寝室に飛び込んできたバルゴの瞬が、そこで見たもの。
それは、ほぼ全裸で(下半身は毛布で隠している)ベッドの端に逃げ込み(?)、真っ青になっている水瓶座の黄金聖闘士。
パパがなぜ、何を恐がっているのかが わかっていない様子で首をかしげているナターシャ。
そして、バルゴの瞬と同じ顔をしているのに、バルゴの瞬ではない少年。

「君は――」
瞬が、彼の胸に向かって まっすぐに手をのばしたのは、瞬が彼の実在を疑っていたからだった。
案の定、バルゴの瞬の手は、少年の身体を素通りした。
瞬は、彼に触れることができなかった。
「エ? エ? ドーシテ? ナターシャは、お姉ちゃんと お手々 つなげるヨ?」
そう言って、ナターシャが 少年の瞬と手をつなぐ。
「パパも さっき、お姉ちゃんの手にキスしたヨ」
「ナ……ナターシャ、何を言うんだ! 瞬、それは誤解だ。俺は、そんな……。瞬、俺が愛しているのは おまえだけだっ!」

ベッドの上で、ほぼ全裸で、髪を振り乱し、何やら ぎゃーぎゃーと支離滅裂な喚き声をあげている、挙動不審としか言いようのない男。
パパの浮気現場を目撃したと証言する、いたいけな幼女。
全裸で取り乱している男を見詰め、瞳を涙で潤ませている、どう見ても未成年の、見た目は美少女。
そんな三人を視界に映し、ほぼ唖然呆然状態の、こちらは年齢不詳かつ性別不明の美人。
四人は四人共、自分がこれから どうすればいいのかが わからずにいた。
いつまでも このままでいられないことはわかっているのだが、どうすればいいのかが わからない――のだ。


「まあ、とりあえず、氷河は服を着ろ。我々はリビングに移動。今日のミーティングの議題は変更だな」
その膠着状態を解消してくれたのは、瞬の仲間たちだった。
「ったく、俺はランチ食うのを楽しみにしてきたんだぜ? なのに、なんで、昼日中っから、男の裸なんか見なきゃならねーんだよ! 思いっきり、食欲なくなるじゃん」
紫龍はともかく星矢に、ピンチの仲間を助けようという気持ちがあったかどうかは わからないが、ともかく それで、止まっていた時は 再び動き出したのだった。






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