氷河がクロノスに冗談で馬鹿な依頼をしたこと。 二人の瞬の間に、十数年の年齢差があること。 二人の瞬だけが、互いに触れ合えないという事実。 そして、過去の経験。 クロノスの性格。 それらの事柄から総合的に判断して、この現象が 氷河の軽口に機嫌を損ねたクロノスの いたずらであることは確実だった。 これまでのクロノスの いたずらと違うのは、ずれているのが時間だけではないということ。 違う時代と違う次元の交錯。 クロノスのいたずらは、いよいよ手が込んできた。 とはいえ、アテナの聖闘士たちは クロノスのいたずらには慣れている。 この状況は、氷河を赤ん坊にされたり、ナターシャを大人にされたりするより、はるかにまし。 ――と思う余裕すら、アテナの聖闘士たちは持ち合わせていた。 だが、大抵のことには驚かないアテナの聖闘士も平常心でいられない事実が一つ。 「ハーデス……だよな? 中身は瞬と半々か。瞬の意識の方が勝っているだけで」 その事実(?)を星矢が言葉にし、その事実を否定する言葉は どこからも返ってこなかった。 “瞬”は、自分が異世界の未来に迷い込んだことを理解してから ずっと、何も言わずに、生きている仲間たちを じっと見詰めていたのである。 他に できることがなかったから。 生きて――死なずに―― 大人になった仲間たち。 かつての青銅聖闘士は黄金聖闘士になり、地上世界は 破滅に至ることなく続いている。 あの氷河がパパになっていて、氷河の娘のマーマが瞬。 紫龍の息子は もう大人といえる歳になっていて、兄の放浪癖は相変わらず。 星矢の食欲と 明るさの変わりのなさは、もはや驚異的である。 温かく優しい空気、時、心。 こんな幸福な世界、こんな幸福な未来があるなどと、瞬は想像したこともなかった。 冥界で たった一人、孤独に耐えている自分と、冷たく寒い自分の世界と、何という違いだろう。 泣きたいのに涙も出ない。 僕の世界では、誰もいない。 皆、死んでしまった。 僕が殺したのだ。 星矢も氷河も紫龍も一輝兄さんも。 「僕が殺した……?」 声に出したつもりはなかったのだが、“瞬”の心中の悲鳴は、この世界の瞬の心に届いてしまったらしい。 “瞬”の嘆きを、この世界の もう一人の瞬が“瞬”に代わって声にしてくれた。 瞬同士だからなのかと思ったのだが、そうではなく――この世界、この時代の彼等は皆、遮断していなければ互いの心が読めるらしい。 この世界だから ではなく、この時代だから、大人になった彼等――黄金聖闘士になった彼等には、その程度の力は当然のものであるらしい。 それは、他の世界でも、自分の世界でも、すべての戦いを乗り越えることができていれば、到達できていたはずの力、姿、状況。 僕たちは、ここに至れなかったのだ。 僕のせいで。 そう思うと、息をすることに痛みを覚えるほど――生きていることが苦しくなる。 大人になった自分と 大人になった仲間たちが、痛ましげに、限りなく優しい眼差しで、異世界の不運な仲間を見詰めているのがわかる。 “瞬”の胸は 一層 苦しくなった。 “心優しい人(たち)”という存在ほど 厄介なものはない。 明確に敵意や害意を向けてくる者たちの方が はるかに安らかな気持ちで対峙することができる。 「パパ。お姉ちゃんは、何がつらいの。どうして、どこか怪我してるみたいな目をしてるの。お姉ちゃんは マーマと おんなじくらい綺麗なのに。魔法の鏡だって、きっと そう言うヨ」 小さなナターシャが、身仕舞いを整えてきたパパの膝の上で、上半身を半分 ひねって パパの顔を見上げながら、尋ねた。 この時代の氷河は やけに お洒落である。 皆に少し遅れてリビングにやってきた氷河の姿を見た時、こんな状況にあるというのに、“瞬”は そんなことに驚いた。 「世界一 綺麗でも、一人ぽっちだと悲しいだけなんだ。ナターシャだって、せっかく 新しく買ってもらった服を着たのに、『似合ってて、可愛い』と言ってくれる人が一人もいなかったら、がっかりするだろう?」 「……」 新しい服を着たのに、『似合っていて、可愛い』と言ってくれる人が一人もいない状況というのが、どんな状況なのかを、ナターシャは考えた――想像してみたらしい。 そして、わかったようだった。 それは、パパも マーマも 星矢ちゃんも 紫龍おじちゃんもいない世界。 いても『可愛い』とは言ってくれないだろうが、一輝ニーサンもいない世界。 このお姉ちゃんは、そんな世界で、たった一人で生きているのだ――と。 だから かわいそうだと思い、そこで思考を止めるほど、ナターシャは冷たい大人ではない。 ナターシャは、子供らしい解決策を、明るく、そして 少し気負い込んで 大人に(ナターシャにとっては、十代の“瞬”も立派な大人である)提示した。 「お姉ちゃんは、このまま、こっちにいればいいよ。だって、元の世界に帰ったって、誰もいないんでショ。パパもマーマも星矢ちゃんも紫龍おじちゃんも一輝ニーサンもナターシャもいないんでショ。だったら、ここにいればいいヨ。ずっといればいいヨ」 「そうできたら、いいんだけど……」 「そうしようヨ! ナターシャ、お姉ちゃんと いっぱい遊んであげるヨ。そしたら、お姉ちゃんは 悲しくなくなるヨ!」 そうすれば、悲しい思いをする人が、“世界”から一人 減る。 身を乗り出して、“瞬”を こちらの世界に勧誘するナターシャが、床に落ちてしまわないように、氷河が その腕でナターシャの身体を押さえた。 ナターシャの言うようにできたら、それは この“瞬”のために最もいいことだと、大人たちも思っていた。 だが、そうすることは、この“瞬”にとって最悪の選択だということも、大人たちは知っていたのだ。 そして、“瞬”が瞬であるなら――“瞬”が 彼等の知っている瞬と同じ瞬であるなら――“瞬”がナターシャの思いついた素敵なアイデアを受け入れないことも、彼等は知っていた。 どれほど その提案に心惹かれても、気持ちが揺れても、迷っても、結局“瞬”は、瞬の道を選ぶ。 異なる世界の仲間だというのに――瞬の仲間たちの推測は、正鵠を射ていた。 新しい お友だちが増える期待に瞳を輝かせているナターシャに、ナターシャのお友だちになり損なった“瞬”が 微笑んで、だが、小さく左右に首を振る。 「そうすることができたらいいけど、そうすることはできないいんだ……。ここにいる氷河は 僕の氷河じゃない。ここにいる星矢も 僕の星矢じゃない。紫龍も、僕の紫龍じゃない。一輝兄さんも、きっと そう。僕は、僕の兄さんたちに、兄さんたちの希望を託された。僕は、僕の世界を守らなきゃならない。僕の兄さんたちの希望を、僕の世界全体を包む大きな光にしなきゃならない」 瞬らしい答え。 瞬なら選ぶであろう答え。 しかし、それはナターシャには納得できないものだった。 「お姉ちゃんは 一人ぽっちで寂しくないノ?」 「寂しいよ」 「一人ぽっちは 悲しいでショ」 「悲しいよ」 「お姉ちゃんは 幸せになりたくないノ?」 「なりたいよ。なりたいけど」 「だったら、みんなと一緒がいいヨ」 「うん。みんなと一緒の世界がよかったね」 なのに、寂しい寂しい僕の世界。 しかし、その寂しい世界に、“瞬”は 帰っていかなければならなかった。 「こっちの世界で、ナターシャちゃんたちと楽しく暮らしていても、多分 僕は本当の意味で 幸せになることはできないんだ」 「ドーシテ? だって、お姉ちゃんは寂しそうで悲しそうダヨ。ナターシャ、最初は、お姉ちゃんのこと、夜のお姫様だと思ったヨ。マーマとおんなじ目なのに、悲しそうで、寂しそうだったから。お姉ちゃんが ずっと寂しくて悲しいままだったら、ナターシャも寂しくて悲しくなっちゃうヨ」 ここにいれば、寂しくなくなり、悲しくなくなるのに。 それでも一人ぽっちの世界に帰るという“瞬”の気持ちが、ナターシャには わからない。 異世界の夜のお姫様の心を思って 泣きそうになっているナターシャに、“瞬”は、切なく微笑んだ。 「もし この世界で、ナターシャちゃんのパパやマーマや星矢や紫龍や一輝兄さんたちと 楽しく暮らせるようになったら、僕は 僕の氷河や星矢や紫龍や兄さんたちが恋しくて、毎日 泣いて暮らすことになると思うから、僕は僕の世界に帰るんだ」 「エ……」 「どんなに似ていても、僕の氷河や星矢、紫龍、兄さんは、僕の氷河、星矢、紫龍、兄さんだけだ。ナターシャちゃんのパパは、僕の氷河じゃないんだ」 「……」 ナターシャは聡明な少女である。 パパと パパにそっくりなもう一人の誰かが 自分の前に現われた時、その二人共を自分のパパだと思えるかどうかを、ナターシャは考え、そして、パパは一人だけだと結論に至ったのだろう。 ナターシャは、最後には、 「ウン」 と言って、“瞬”に頷いた。 ナターシャのパパは、たった一人。 “瞬”の仲間たちも、死んでいった“瞬”の仲間たちだけなのだ。 生まれた世界、時間、境遇、人には それぞれに生きる場が与えられる。 どんなに理不尽でも、どんなに不公平でも、どんなに残酷でも、人は そこで生きていくしかないのだ。 「ナターシャちゃんたちが この世界で幸せでいてくれることが、僕の力になり、僕の慰めになるよ」 そう言って、異世界の若い瞬は消えていった。 ナターシャには――瞬と瞬の仲間たちにも――『さようなら』を言う時間さえ与えられなかった。 |