「これは――」
『何だ』と問うべきか、『誰だ』と問うべきか。
『これは』に続く正しい言葉を思いつけず、結局 氷河は それきり黙り込んだ。

氷河たちが瞬(の遺体)に会うために案内されたのは、グラードのメディカルラボの病室ではなく、遺体安置室でもなく、会議室。
血色がよく、生きているとしか思えない瞬に似たそれは、白衣を身にまとい、ごく普通に――瞬が生きていたら そうするだろう様子で――椅子に腰掛けていた。
もしかすると、瞬は医学生であるという既成観念のために 白衣に見えてしまっただけで、瞬に似た それが身に着けているものは白い検査着なのかもしれなかったが。

瞬が座っているミーティング・ソファの右側に、1メートルほどの間を置いて 同じソファがあり、沙織が腰掛けている。
二つのミーティング・ソファの間には、グラードの医療ラボの医師らしき40絡みの男が立っていた。
彼は、(こちらは正真正銘の)白衣を身に着けている。
何も訊けずにいる氷河――星矢も紫龍も――の機先を制するように、沙織は 開口一番、
「もちろん、これは瞬よ」
と、宣言した。

そう言われても、瞬の死を確かな事実として感じ、その記憶が鮮明な三人には、沙織の言葉は にわかには信じ難いものだったのである。
信じたいし、そうであってくれたら嬉しいとも思うが、それでも。
そもそも 小宇宙が全く感じられない瞬は、彼等の仲間の瞬だろうか――。


「では、まず、脳死の説明からお願いできるかしら?」
という沙織の指示を受けた白衣の男は、すぐさま 沙織の希望に従った。
「脳死というのは、ヒトの脳幹と大脳の機能が低下して回復不能と認められた状態のことを言います」
ごく一般的な、脳死の説明。

脳死とは、脳が死んだ状態。
心肺機能が停止している場合もあるし、心肺機能が生きている場合もある。
その程度の知識は、さすがに氷河たちも持っていた。
無論、彼の説明は それで終わらない。
脳死の説明に続いて、彼は、瞬の身に起こったことを、詳細に説明してくれた。
瞬の身に起こったこと――というより、グラードのメディカルラボの医師たちが 瞬の身に行なったことを。
それは要するに、『瞬の脳死を確認後、瞬の記憶を記録していたAIチップを、瞬の脳の中に埋め込むオペを開始した』ということのようだった。

埋め込まれたAIチップは、瞬の記憶(データ)と、脳を活動させる手順(アルゴリズム)を、一度は死んだ瞬の脳に与えるためのもの。
それは、瞬の脳幹の傍らに埋め込まれると すぐさま ラボの研究員たちの期待通りの働きを開始。
瞬の脳のシナプスは、AIの指示によって、生きていた頃と同様の情報伝達作業を行なうようになり、AIの持つデータと瞬の脳の記憶の重複部分を削除し、記憶の整理を行なった(らしい)。

そうして、完璧ではないが、瞬は生き返ったのである。
肉体は完全に瞬のもの。
脳の中に、生前と同じように 脳を活動させるための ごく小さな補助装置と、脳死の瞬間に欠損したかもしれない記憶を補うためのデータを送り込んだだけ。
「それだけです」
と、白衣の男は言った。
「わかりやすく言えば、瞬くんの脳に、電気刺激で神経細胞の活動を促すペースメーカーを埋め込んだようなものです」
と。

「……」
彼のしたことは、“それだけ”なのかもしれない。
一度 確かに死んだ脳に、『生き返って、再び 動き出せ』と発破をかける機械を埋め込んだだけ。
しかし、“それだけ”のことが、どんな結果を もたらしてくれたか。
“これだけ”の成果を見せてくれたと、諸手をあげて喜べる状況ではないようだった。
「一度 死んだのです。脳の死んだ部分の完全な復元は、現在の技術では不可能です。もちろん、学習によって取り戻すことのできる知識は 学習によって再生可能なのですが、学習しても 取り戻すことのできない情報はあるわけで――」

彼は何を言いたいのか。
何を言おうとしているのか。
それが わからなくて、氷河たちは眉をひそめたのである。
氷河たちの もどかしさを察し、彼は 気まずそうに、言いにくそうに、だが 彼が言わなければならないことを 口にした。

「走ることを忘れても、人は 学習して、再び走れるようになる。筆記用具の使い方、洋服の着脱方法、楽器の演奏法、料理の仕方。“知識”は学び直せばいい。たとえ 失われても、学び直すことができます。しかし、“経験”は“知識”とは違う。失われたエピソード記憶は取り戻せない」
つまり、瞬の記憶は不完全。
そういうことのようだった。

顔を曇らせた氷河たちの気持ちを 少しでも明るくしようとしたのか、白衣の男が 無意味な笑顔を その顔に貼りつける。
彼の乾いた笑みは、氷河たちの気分を かえって空しいものにした。
「聖闘士になってからの記憶は、すべて保持しています。あなた方が聖闘士になって日本に帰国した時、あなた方の身体に体調データ記録のためのチップを埋め込みましたが、あれは あなた方の経験を記録蓄積する装置でもありましたから。肉体の機能も聖闘士のそれとして、問題はないようです」

脳死後、AIチップ稼働開始まで、30分足らず。
その30分足らずの間に壊れてしまった脳細胞は復元不可能。
そして、その30分足らずの間に壊れたのは、長期記憶域だけだったらしい。
つまり、よりにもよって、学習によって取り戻せない部分だけが壊れてしまったのだ。
記憶のバックアップは、ある程度はあるのだが。

「死んだ瞬が生き返っただけと思えばいいのか」
尋ねながら、氷河は、そうではあるまいと自分で自分に答えていた。
これは、瞬の肉体。
瞬の記憶を持つ、瞬の身体。
瞬でないところは、かけらもない。
だが、だから瞬だといえるだろうか――。

氷河の問いは、答えにくい問いだったに違いない。
あるいは、安易に答えられないことだったのか。
氷河に、答えにくい答えを手渡してきたのは、白衣の男ではなく、沙織だった。
手を こまねいて瞬の死を見ていることができず、ラボの者たちに それをするように指示を出したのは 沙織なのだろう。
その責任において、沙織は 答えたのだ。非常に答えにくい答えを。

「“それだけ”とは言えないわね。聖闘士になる以前の記憶は、ほぼ失われているわ。それから、小宇宙も消えてしまっている」
小宇宙が消えてしまった――あれほど強大だった瞬の小宇宙が 全く感じられない。
それは さすがのアテナにも予想外のアクシデントだったのだろうか。
アテナの小宇宙は いつも通り。
沙織は、その顔に どんな感情も載せていない。
アテナの心情は、氷河たちには窺い知れなかった。

「瞬は……聖闘士ではなくなってしまったということか」
「小宇宙を有する者を聖闘士というのなら、そういうことになるわ」
「聖闘士だった記憶はあるのよ。その価値観も心も 聖闘士だった時のまま。だというのに、なぜか 小宇宙は再生されなかった」
「……」
小宇宙を生むものは何なのだろう。
小宇宙を持っている氷河でさえ、それを言葉で説明することはできなかった。

聖闘士の資格を得て 日本に帰国してからの記憶だけが完璧な瞬。
つまり、この瞬には、自分が初めて小宇宙を生んだ時の記憶がないのだ。
瞬の小宇宙が消えてしまったことには、その事実も影響しているのかもしれなかった。

「まあ、でも、とにかく 瞬は生きてるんだ。生きてりゃ、どうにかなるさ!」
瞬も、氷河も、紫龍も、沙織も、瞬の脳にAIチップを埋め込んだ医師も――その場にいる すべての人間が 深刻かつ神妙な顔をしているのに、そんなことを明るく大きな声で言えてしまう星矢は、間違いなく大物である。
紫龍も、沙織も、瞬の脳にAIチップを埋め込んだ医師も、瞬当人までが、星矢の磊落すぎる明るさに笑み崩れた。






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