紫龍も、沙織も、瞬の脳にAIチップを埋め込んだ医師も、瞬当人までが、笑み崩れた。
つまり、氷河は笑わなかった――笑えなかったのだ。
『生きていれば、どうにかなる』
それは、その通りである。
小宇宙は修行をして――つまりは学習して――体得したもの。
生きてさえいれば、学習によって再び手にすることができるかもしれない。
勤勉で努力家の瞬なら、それは容易なことだろう。
となれば、ここは、瞬が生きていること、死ななかったことを喜ぶべきところ。
そして、これから 瞬と瞬の仲間たちが どうすべきなのかを、前向きに考えるべきところ。

にもかかわらず、氷河が、“生きていれば、どうにかなる”気分になれなかったのは、彼が、努力や学習で どうにかなるとは思えない、非常にセンシティブな分野の問題を憂えていたからだった。
努力や学習で どうにかなるとは思えない、非常にセンシティブな分野。
つまり、運や偶然やタイミングに大きく左右され、論理からも遠く離れ、利害も考慮しない分野の事柄を。

星矢は、しかし、その分野の事柄こそを、最も楽観視しているようだった。
『積もる話もあるでしょうから』という、適当なのか不適当なのか 極めて判断しにくい言葉を残して、沙織が 白衣の医師と共に席を外した途端、
「まあ、おまえには 願ったり叶ったりの状況なんじゃないのか? 瞬は、おまえと親密な仲だったことは憶えてて、聖闘士じゃなくなってるんだろ? つまり、聖闘士として戦わなくていい――戦いたくても戦えないってことなんだ」
などと言い出したところを見ると。

紫龍が 星矢の着眼点に感心したように頷く。
「確かに、今の瞬は――こういう言い方が適切かどうかは わからんが、氷河のただの恋人なんだ」
「そうそう。どうせ医学部4年目、学業に集中したい時だったろうし、しばらく聖闘士家業は休業。これは 瞬には超グッドタイミングだろ」
さすがは大雑把で鷹揚かつ大胆、細かいことは気にせず、詰まらぬことには頓着しない星矢である。
彼は、瞬が生きていて、以前のように優しければ それでいい――くらいの考えでいるようだった。
さすがに そこまで大雑把になれないらしく、瞬が 困惑気味に瞼を伏せる。

「……僕、自分が氷河に好意を持っていたことは憶えているんです。どれくらい親密な関係だったのかも、記憶に残っています。でも、どうして彼を好きだったのか、それがわからない。憶えていないんです……」
大雑把な星矢は、『好きだったことを憶えてるなら、何の問題もないだろ』と言うほど無神経ではなかった。
『好きだったことを憶えている』と『今、好きだ』は、違うことなのだ。
紫龍が苦い顔になって、眉根を寄せる。

「それは、瞬が氷河を好きになったのが、瞬の記憶記録チップが瞬の記憶を記録し始める以前――幼い子供の頃だったということか」
「そんなはずはない。俺が瞬に好きだと告白したのは、十二宮戦後だぞ。瞬が俺に応えてくれたのは、それから更に3年後。俺は、ガキの頃から瞬が好きだったが、瞬は聖闘士になってから――」
氷河にしては論理的で表層的な反論を、紫龍は、
「瞬も 本当は もっとずっと前から、おまえのことを好きだったんだろうな」
と、あっさり論破した。

「……」
恋は確かに、運や偶然やタイミングに大きく左右され、論理も利害も度外視したところに生まれるものである。
瞬が 実は、幼い頃から、金髪の仲間に好意を抱いていてくれた。
嬉しいことのような、憶えていないのでは何の意味もないような、その事実。
その事実に、星矢は星矢で、得心できるような 得心したくないような――複雑な気分になったようだった。

「ガキの頃の氷河ってさ、拗ねてて、ひねてて、可愛げがなくて、瞬が一輝といると 不愛想どころか意地悪になって、その癖、瞬を泣かせた奴には素知らぬ顔で容赦なく仕返ししたりして、全然 素直な いい子じゃなかったじゃん。あれを好きだったっていうなら、瞬も 相当の変わりモンだぞ」
相変わらず、明るく大きな声での星矢の異議申し立ては、
「そうだったんですか……?」
という、どこか他人事のような瞬の呟きで、立ち消えになってしまった。
幼い頃に、氷河の何かが瞬の心を捉えた。
それは 瞬の記憶の中にだけ刻まれていた事実であり、そして、その記憶は 今では失われてしまったのだ。
もはや、とり戻すことはできない。

「……」
「……」
「……」
「……」
室内に充満している沈黙を振り払うために、紫龍が、議題を 議論可能なところに引き寄せてくれた。
「問題は――熱烈な恋をしていた恋人同士の一方が、熱烈な恋に落ちた瞬間の記憶を失ってしまった時、二人は恋人同士でいられるのかどうかということだろうな」
問題は、今 現在も 氷河と瞬は恋人同士なのかということである。
それを確かめるには どうしたらいいのか。

その難事業に 気楽に取り掛かってくれたのは、今度も大雑把で鷹揚かつ大胆、細かいことは気にせず、詰まらぬことには頓着しない星矢だった。
さすがは星矢と言うべきか。
その方法も、大雑把で大胆の極みだった。
彼は、瞬に、
「氷河に代わって、俺が単刀直入に訊いてやるぜ。『瞬。おまえには、氷河と寝る気はアリマスカ』」
と、身を乗り出して、問うたのだ。

「え」
その単刀直入、直截振りに、気圧(けお)され、瞬が こころもち身を引く。
星矢は、大雑把で大胆な攻撃を続行した。
「なんつーか、俺のイメージではさ。おまえらの関係って、氷河が いつもサカってて、おまえは仕方なく 氷河に 付き合ってやってるみたいっていうか、おまえ自身は しなくても平気そうっていうか、そんなだったんだ。本心では 嫌だったのなら、これを機に、ニクタイカンケイを持つのを ばっさりやめるって手もあるんだ!」

星矢は、実は、氷河と瞬が 特別に親密な関係にあることを、好ましいことと思っていなかったのかもしれない。
少なくとも、歓迎してはいなかったのだろう。
そのニクタイカンケイさえなければ、瞬のいちばんの親友、いちばんの仲良しは自分だと 思うことができるから。
星矢の可愛らしい焼きもちへの瞬の答えは、(星矢にとっては)残念なことに、
「僕は、氷河と眠るの、好きだよ。嬉しい」
だった。

「嬉しい? 気持ちいいじゃないのか」
星矢と紫龍と氷河が、ほぼ同時に、ほぼ同内容の反論。
瞬は三人に向かって頷いた。
「氷河が気持ちいいのが わかるので、僕も とても嬉しい。僕は、氷河をすごく好きだったんです」
「……」
星矢がムッとした顔になったのは、瞬が 仕方なく氷河に付き合ってやっていたのではないことが わかったから。
氷河が嬉しそうな顔にならなかったのは、瞬の言葉が 過去形だったからだった。

「好き“だった”? ――今は?」
「嫌いではありません。とても綺麗で、可愛い人だと思っています」
「可愛い、だと?」
「そんなふうに 律儀に突っかかってくるところが可愛い」
「……」
中途半端に記憶のある人間の ややこしさ、扱いにくさ。
今の瞬は、美しさ、優しさ、愛情等の花言葉を持つ花で作られた花束のようなものだった。
種として植えられ、花を咲かせるまで暮らしていた大地から引き離されてしまった美しい花。
その大地が どこにあり、どんな場所だったのかも、今の瞬は憶えていないのだ。

ややこしい瞬に戸惑わされ黙り込んでしまった氷河を横目に見て、星矢は肩をすくめたのである。
自分の立場的に、ここは 氷河の味方をしてやらなければならないことに気付いて。
「氷河が突っかかるのは、身内に対してだけだ。氷河は、他人は徹底して無視する男だから」
「え?」
瞬の中に埋め込まれたAIチップは まだ動きがスムーズではないらしい。
瞬は、自分の中に 当該事項に関係する記憶を探しにいき、そして、見付けたようだった。
「そうみたい。でも、それも、氷河が不親切だからではなく、相手が自分の親切を迷惑に思うのではないかと 案じてしまうからで、結局は 氷河の思い遣りなんだと――」
「黙れ!」

険しい口調の氷河の怒声が、瞬の声と言葉を遮る。
瞬は氷河を非難していたわけではなく、むしろ弁護していたのに。
だが、氷河の怒声には、氷河なりの都合と事情があったのだ。
“氷河の知っている瞬なら、氷河の言動に いちいち そんな解説を加える野暮はしなかった”という事情が。
氷河の知っている瞬、氷河の好きな瞬、氷河が慣れ親しんだ瞬なら、やはり氷河の人となりを知っている星矢に対して、微笑むだけ。
野暮な説明も弁護もしないのだ。
それで十分、通じ合う。

「……」
氷河の大声に驚いた瞬は、氷河が なぜ機嫌を損ねたのか、その訳を自分の記憶の中に 急いで探しに行ったようだった。
探し物を見付けた瞬が、
「はい」
氷河に頷く。

大雑把で鷹揚、細かいことは気にせず、詰まらぬことには頓着しない星矢なら 気にしないような小さな すれ違いが、星矢と同じレベルで大雑把であるにもかかわらず、氷河は気になって仕方がないらしい。
それは、これが、運や偶然やタイミングに大きく左右され、論理も利害も度外視したところに存在する恋という問題だからなのか。
思いがけないところで、思いがけない繊細さを発揮してみせる氷河に、星矢と紫龍は、思いがけず、思いがけない気分になってしまったのだった。






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