たとえ アテナの聖闘士たちが 聖闘士として戦わなければならない敵が現われても、その敵が瞬を標的にすることはないだろうと、瞬の仲間たちは思っていた。 今の瞬からは 小宇宙が感じられないのだ。 つまり、いつでも誰にでも容易に倒すことのできる一般人でしかない。 そんな一般人を、アテナの聖闘士を敵とするような戦士たちが わざわざ襲うはずがない。 そういう理屈で、生き返った瞬は、ラボの外に出るようになってからも完全にノーガードだった。 聖闘士だった頃の瞬は、強すぎて ボディガードの必要はなかったから、“ボディガードがついていない”のは、再生以後も死亡前と同じ。 死ぬ前と、生き返ったあとで、何も変わっていなかったから、誰もが その事実を奇異に思わなかったのだ。 瞬の仲間たちも、アテナも、瞬当人も。 敵が どんな敵であっても――それが自分を殺そうとしている相手でも――傷付けたくない瞬という人間の人間性に変わりはないということに。 その日、その時。 瞬は学校から グラードのラボに戻ってきたところだった。 氷河も、学校から帰ってきた瞬に会うために ラボにやってきた。 二人は、ラボの門前で鉢合わせをしたのである。 「あ……」 「ん」 挨拶とも言えない挨拶を交わし、二人がラボの門脇にある入退所監視装置に 顔認証システム稼働の合図を送った時、 「死ねっ、化け物っ!」 いかにも 動きの鈍重な一般人が、獣じみた咆哮と共に、ナイフを逆手に持って、瞬に襲い掛かってきた。 「瞬っ!」 その暴漢を 氷河が取り押さえなくても、最初の一撃を避けることは、瞬にならできていただろう。 だが、氷河に 腕を掴みあげられてからも 狂気のようにナイフを振り回し続ける その男を叩きのめすことが、一人の時の瞬にできていたかどうか。 幸い 氷河が すぐ側にいたから、暴漢が意識を失うほど容赦なく叩きのめす作業は、氷河が してくれた。 血は一滴も流れなかった。 氷河に叩きのめされた際、暴漢の鎖骨にヒビが入ったが、それとても、氷河に叩きのめされた暴漢が勝手に そうなる態勢で倒れたからで、氷河が加えた力によるものではなかった。 瞬を襲った暴漢は、どこぞの邪神の手先ではなく、全くの一般人。 守秘義務を破って グラードメディカルラボの施術内容を外部に漏らしたために、ラボとの契約を解除された会社の営業社員とは 赤の他人だが、完全に無関係ともいえない、40代後半の自称自営業男性。 彼を この凶行に駆り立てたのは、グラードのメディカルラボで、脳死に至った人間を生き返らせる試みに成功したという、ネット上の情報だったらしい。 彼は、一人娘が先天性高度心奇形で、娘に臓器提供者が現われる時を既に5年も待ち続けている。 心臓に奇形が見付かり、『心臓移植を行なわなければ、もって3年』と言われた期限は とうの昔に通り過ぎ、彼の焦りは狂気の域に達しかけていた。 そこに、脳死からの生還が確実になったというニュース(実は ただの噂)。 脳死者がいなくなるということは、脳死臓器提供者がいなくなるということ。 臓器提供までの待機時間が、これまでより長くなるということ。 そんなことになったら、娘の死は確定する。 脳死からの生還を、決して許してはならない。 衝動的に そう思い、彼は この凶行に及んだという。 ネット社会の最も恐ろしい点は、フェイクニュースや不確実な噂の驚異的伝播速度より、ごく些細なヒントだけで すぐに脳死からの生還者の個人特定ができてしまうことなのかもしれない。 暴漢の身柄は、彼の凶行の一部始終が記録された防犯カメラの映像と共に、速やかに警察に引き渡された。 襲われた側に負傷した者はいなかったので 内々に収める道もあったのだが、暴漢当人が 警察沙汰、裁判沙汰になることを 強く望んだのだ。 これがニュースになれば、娘を愛する哀れな父親に同情して、娘に心臓を提供してくれる人物が現れるかもしれない。 彼は、そう考えたらしい。 臓器が提供される時を5年も待ちながら、彼は 臓器の提供先を指定できるのは特定の親族のみという、臓器提供ルールを知らなかったのである。 そして、自分が死んで、娘に臓器を提供することは毫も考えなかった。 警察と検察は、臓器欲しさの殺人事件が横行することを危惧して、この ささやかな殺人未遂事件を ひっそりと目立たぬよう処理することにしたようだった。 |