「ああ。一人じゃ無理だ。俺には、俺の球を受けてくれるキャッチャーが必要なんだ!」
「そういう意味ではなくて――それだけではなくて、9人で」
9人? まあ、理屈ではな。
でも、俺が180キロのストレートで完全試合をすれば、他の7人はいらないだろ。
少なくとも、俺と彼女がいれば、そのチームが負けることはない。
二人――二人いれば、十分だ。

「頼む。俺と一緒にプロテストを受けてくれ! いっそ、全くの無名を逆手にとって、メジャーに直接 挑戦するんでもいい!」
厳しい口調だった天才美人キャッチヤーが、俺の頼みを聞いて、ぽかん。
自分が それくらいすごいことができる人間だって事実を自覚したというより、俺の言ったことの意味が理解できてないって顔だった。
天才キャッチャーより、ナターシャちゃんの方が迅速に、俺の言葉の意味を理解してくれたらしい。
俺の申し出に、ナターシャちゃんは大喜びだった。

「マーマ、野球選手になるのッ !? ヤッター! マーマは野球選手になって、ポチローとショーブするヨ!」
興奮した声で、ナターシャちゃんは そう言った。
ポチローってのは、日本からアメリカに渡って、米国メジャーリーグで大活躍し、こないだ現役引退したメジャーリーガーだ。
こんな小さな女の子でも知ってるなんて、やっぱ、日本で有名になるには、日本のプロ野球よりメジャーリーグに挑戦した方がいいのかな。
俺、英語、全然 ダメなんだけど。

「ナターシャちゃんは、ポチローのファンなんだ?」
「ウン!」
ナターシャちゃんが、ほっぺをピンク色に上気させて、明るい笑顔で 大きく頷く。
やっぱ、日本のプロ野球よりメジャーかなあ。
ナターシャちゃん。
俺は、そのポチローより速い球をなげれるんだぜ。

「マーマが教えてくれたんダヨ。ポチローは 立派な野球選手でいるために、毎日 お誕生日にも クリスマスにも さぼらずに野球の練習したんだって。フツーは 怠けたくなって、遊びたくなって、さぼりたくなるのに、毎日 ご飯を食べるみたいに 練習するのが当たりまえになってたんだッテ。だから、ナターシャも、毎日 お誕生日にも クリスマスにも さぼらずに、ご飯を食べるみたいに、歯磨きと お片付けをするヨ!」
こんな小さな女の子にまで名前を知られてるポチローの人気は さすがだけど、歯磨きと お片付けの動機づけに使われたんじゃ、ポチローの偉業が泣くってもんだぜ。

興奮気味のナターシャちゃんを、天才美人キャッチャーが抱き上げる。
いくら小さな女の子ったって、ナターシャちゃんの体重は13、4キロはあるだろ。
それを 重さがないみたいに、花でも摘むみたいに、片手で 軽やかに。
やっぱり、この天才美人キャッチャーは、ただの美人じゃないぞ。

「ポチローさんは引退しちゃったから、僕と勝負はできないと思うよ」
「ナターシャが お願いしたら、ショーブしてくれないカナ」
「うーん。氷河なら、ナターシャちゃんにお願いされたら、何でも言うこと 聞いちゃうだろうけど……」
「パパは ナターシャに甘すぎるんダヨ。だから ナターシャは、パパには我儘を言わないヨ」
「ナターシャちゃんは偉いね。じゃあ、おうちに帰ろうか。氷河に、葉っぱが6枚あるクローバーを見せてあげなきゃ」
「ウフフ。きっと、パパも 超びっくりダヨ!」

マーマが野球選手になるのを あんなに喜んでたのに、ナターシャちゃんは もう、そんなことはどうでもよくなったらしい。
そりゃ ないだろ、ナターシャちゃん。

「ま……待ってくれ、俺とプロテストを――」
俺に背を向けて、ふれあいの小径の方に歩き出した天才美人キャッチャーに、俺は追いすがった。
肩を掴んだつもりだったのに、なぜか俺の手は空気を掴んでた。
それでも天才美人キャッチャーは、ゆっくり 後ろを振り返って、俺に、
「君は高校生ですか?」
と訊いてきた。

俺は無言で頷いたんだ。
何か余計なことを言うと、美人の機嫌を損ねて、状況を まずい方に転がしちまいそうだったから。
ナターシャちゃんには にこにこしてたのに、俺を見る美人キャッチャーの目は――多分、怒ってた。
汚れ一つなく、綺麗に澄みきった瞳の清純派美人が怒ってる図って、滅茶苦茶 恐いぞ。
天使や神様に怒られてるみたいで、自分が救いようのない底辺ドサンピンって気になる。
綺麗な目と綺麗な顔をした純白の天使は、声を荒げなくても 途轍もない迫力を全身に たたえてた。

「君は、ルール違反をした。この公園では、野球場以外でのキャッチボールは禁止されているんです。ナターシャちゃんにぶつかる直前に 僕が君のボールを掴んだ時、君が 最初に何をすべきだったか、わかりますか? 君は、自分がボールをぶつけかけた相手に言うべき言葉を まだ言っていません」
この公園の管理人でもないくせに、何を偉そうに!
――なーんてことを、彼は思いもしなかった。

俺より背が低くて、俺より ずっと細くて、しかも小さな女の子連れ。
そんな人が、自分よりずっとガタイがよくて、当然 腕力もあって、到底 ガラがいいとは言い難い俺みたいな男に、臆することなく その非を責めてくる。
それって、滅茶苦茶 勇気の要ることだ。
それを、この人はしてる。
それは、すごいことなんだ。
短気短慮で売ってる俺だって、さすがにヤクザ相手に いきがって逆らうような無謀はしない。

「ご……ごめんなさい?」
そう言えば、俺はまだ、『ごめんなさい』も『すみません』も言ってなかった。
でも、それは、これまで誰にも取れなかった俺の球を取れる天才キャッチャーの出現に驚いたからで、俺は絶対に、ヤンキーとか不良とか反社半グレとかじゃないんだ。
確かに 俺は馬鹿だけど、悪いのは頭と言葉使いだけで、根性と素行は そんなに悪くないんだ。そのはずだ。

俺が言ってなかった言葉は『ごめんなさい』で正解だったらしい。
天才美人キャッチャーは、俺が その言葉を知っていて、喋ることもできることに安心したのか、ほっと短い息をついた。
「そう。もし、君のボールのせいで誰かが怪我をしていたら、『ごめんなさい』だけでは済まなかったんですよ。君は 自分のルール違反の責任を負わなければならなくなる。怪我の治療費、亡くなったり 障害が残ったりしたら、高額の賠償金、慰謝料。最悪の場合、君の家庭は、被害者への保障のために 経済的に破滅します。自分が どれほど重大なルール違反をしていたのか、自覚してください」
「いくら何でも、それは大袈裟だろ。実際は、こうして――」
こうして、ナターシャちゃんは無事だったんだし。

「ええ。よかったですね。ナターシャちゃんに何かあったら、この子の父親が冷静では いなかったでしょうから。ナターシャちゃんの身に何かあったら、ナターシャちゃんのパパは、平気で あなたを殺しますよ。あなたは命拾いをした」
な……なんだよ、それ。
そんな綺麗な顔して、『平気で殺す』なんて、物騒なこと言わないでくれよ。
俺を脅す気か?
そんなことで、俺がビビるとでも思ってんのか?
「公共の場で決まりを破ることを軽くみないでください。君の一生も狂いますよ。野球も一生できなくなるかもしれない」
「だから、謝っただろ! 俺だって、自分の人生がかかってるんだ!」

まずい! って、思った。
そう言っちまってから、んなこと言うべきじゃなかったって思った。
俺は、いつもこうだ。
無意味で無益な負けん気を抑えられなくて、感情に流されて、言わなきゃいいことを言って、事態を悪化させて、最終的に 自分自身を にっちもさっちもいかない状況に追い込む。
リトルリーグをやめることになった時も、高校の入部テストを受けて落ちた時も、バッティングセンターを出入り禁止になった時も、原因はいつも、俺の余計な一言だった。

俺は、自分が最低の大馬鹿野郎だって自覚してるのに――自覚してるからこそ、人に 上から目線でものを言われることに我慢できない。
我慢できなくなって、癇癪を爆発させちまうんだ。
そして、今もまた。

「そのために、他人の人生を狂わせてしまっても構わないというんですか」
「どうでもいいとは言ってないだろ! 俺の人生も大事だって言ってるだけで」
「その考えを改めてくれないと、僕は あなたの力にはなれません」
「そんな力、いらねーよっ!」
あああああっ、俺の馬鹿野郎!
謝れ! 今すぐ、土下座して謝れ!
この人が 俺の球を受けてくれなかったら、この人が俺に力を貸してくれなかったら、この人がいなかったら、俺は まじで何の取りえもない、ただのロクデナシのコンコンチキ。社会のゴミ野郎になるんだぞ!

謝れ! 謝れ、謝れ、今すぐ謝れ!
俺の中の 比較的 利巧な部分は しきりに俺をせっついたけど、俺の身体は、『んなカッコ悪いことができるか!』って馬鹿な反論をして、その場に芸もなく棒立ち。
俺の人生を変えてくれる天才美人キャッチャーは、ナターシャちゃんを抱きかかえたまま、俺に背を向けて、すたすたと どっかに歩いていってしまった。






【next】