エピソードN






沙織からの和菓子の届け物。
それを光が丘の氷河の家まで届けに来てくれたのは星矢で、彼の目的は もちろん、自分が運んできたものの ご相伴にあずかることだった。
問題の和菓子は、干した橘の実を黄身しぐれで包んだ菓子で、九州の某和菓子店だけで作られているものらしい。
先週 城戸邸を訪問した際、お茶請けとして供された それを、ナターシャが大いに気に入ったのである。
味もさることながら、大人の親指の爪ほどの大きさしかない小さなミカンを丸ごと生地で包んだ和菓子の、その愛らしい様子を。

とはいえ、そもそも橘の実は 他の柑橘類に比べて 生産量が極めて少ない上に、ナターシャが城戸邸で食した菓子は、九州にあるグラードの系列会社のCEOが、上京の際に手土産として沙織の許に個人的に持参したもので、賞味期限は 購入日から5日。当然、通販サービスはしていない。
『いつか九州に旅行した時に、必ず もう一度食べようね(=次に食べられるのは、いつかわからない)』とマーマに言われて、ナターシャはがっかりしていたのだ。
それが1週間経たないうちの再会である。
ナターシャは大喜びだった。

「星矢ちゃん、アリガトウ! ヤッター!」
「いや、ナターシャが そんなに気に入った菓子なら、俺も食ってみたかったから」
「礼を言うなら、星矢ではなく沙織さんだな」
「沙織さん、もしかして、わざわざ九州から上京する人に 買ってきてくれるように 頼んでくださったのかな。あとでお礼を言っておくよ」
姫橘の実と葉の絵が水彩で描かれた蓋を開けると、橙色と若々しい緑色で橘の実を表現した包み紙に包まれた橘の実の菓子が、行儀よく10個並んでいる。
お菓子は姿の美しさが大事と ナターシャが思っているかどうかは わからないが、その愛らしい菓子の整列を見て、美しいもの可愛らしいものが大好きなナターシャは、瞳をきらきらと輝かせた。

「沙織サンはお菓子の神様ダヨ! 戦いの神様なんて、嘘ダヨ。ナターシャ、沙織サンが喧嘩してるとこなんて見たことがないモン!」
弾んだ声で、高らかに断言。
沙織の強さ激しさを知らないナターシャは無邪気である。
が、ナターシャに、『本気になると、沙織は この世界で1番目か2番目くらいに怖いのだ』という事実を教える必要はないのだ。
アテナを本気にさせないことが アテナの聖闘士の務めであり、瞬は その務めを全うするつもりだったから。

「そうだね。沙織さんも 本当は お菓子の神様に生まれたかったのかもしれないね」
「だったら、沙織サンは お菓子の神様になればいいヨ。沙織サンだって、戦いの神様なんて イヤに決まってるヨ」
沙織は 戦いの女神でいることが嫌なのに決まっていると、ナターシャは いとも気楽に、だが 真面目な顔で決めつける。
ナターシャは戦いが嫌いだから。
戦いは誰かと誰かの仲が良くないから起きることで、場合によっては、パパやマーマや大勢の人が傷付く恐れのあること。
沙織が そんなものを好きなはずがないというナターシャの決めつけは、ごく自然なものだったろう。
ナターシャは、いつも優しく微笑んでいる沙織をしか知らないのだから。

その決めつけは、はたして事実に沿ったものかどうか。
瞬は、沙織にそんなことを尋ねたことはなかった。
否、自分が戦いの女神であることを 沙織がどう思っているのかということを、瞬は考えたことがなかった。
たとえ尋ねても、沙織からは大人の答えしか返ってこないだろうが、実際のところはどうなのだろう。
気にはなるが、確かめるわけにはいかない。
場合によっては、その問いかけは、沙織を苦しめることになるかもしれないことだから。
そして、それは、確かめたところで どうにもしようのないことだから。

「多分、それはできないんだよ。人間が 人間になりたいと願って人間に生まれてくるわけじゃないように、おそらく 神様も、神様に生まれたいと思って 神様に生まれてきたわけじゃないだろうから。命って、生きることって、誰にとっても そんなものなんだよ。『何でもいいから、とりあえず生きてみなさい。きっと いいことがあるから』って、命の神様に言われて、命は この世界に放り出されるんだ」
命というものは思い通りにならない。
アテナの聖闘士としても、一人の医師としても、そう思うことが多すぎる。
自分の命を自分の意思で終わらせることすらできない沙織は、人間より一層 その思いが強いかもしれない。
それでも彼女は優しい。
他の命に優しく振舞うことができる。
それは本当に素晴らしく、有難く、そして悲しいことなのだ。
瞬は そう思った。

「マーマ?」
ナターシャの前で つい しんみりしてしまった瞬の顔を、ナターシャが怪訝そうに覗き込んでくる。
瞬は、急いで“しんみり”を“にっこり”で上書きした。

「ん。だからね、せっかく生まれてきたんだから、できるだけ楽しく生きたいでしょう? できるだけ幸せになりたいよね」
「ウン」
「なら、毎日を頑張って生きよう。その方が、毎日 怠けてる人より、毎日が楽しいし、幸せになれるよ。『あの時、もう少し頑張っておけばよかった』って残念に思うことはなくなる」
「ウン! ナターシャは毎日 頑張るヨ! 頑張って いい子でいるし、お菓子も頑張って、いっぱい食べル!」
「お菓子は、あんまり食べ過ぎないようにね」
「エ……」

マーマの言葉に、矛盾を感じたらしいナターシャが首をかしげる。
瞬は すぐに自身の過ちを認め、ナターシャに謝った。
「ごめんね。何でも頑張るのがいいとは限らないね。ナターシャちゃんは 今のままでOKかな。ナターシャちゃんは いつも一生懸命で、生きることに手抜きなんかしていないから」
ナターシャは、お菓子を食べるのにも全力投球。
手抜きは大人の専売特許なのだ。






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