立ち上がった古代人が、手の平と袴についた土を払ってから、今度は立ったまま、瞬に腰を折る。 彼は振舞いが、つくづく日本人だった。 「失礼いたしました。私は 田道間守と申します」 「タジマノモリ……さん?」 「あら」 瞬は寡聞にして知らなかったが、それは デストールが知っている名であるらしい。 瞬に首をかしげられたデストールは、彼が知っていることを瞬に知らせてくれた。 「田道間守は、冥界と生者の世界を行き来できる人間よ。生きたまま冥界に来て、冥界の橘の木の枝を地上に持ち帰った人。この木を植えたのも田道間守。そう聞いてるわ」 蛇の道は蛇。 餅は餅屋。 生死の境界は蟹座の聖闘士。 デストールの知識は、事実(史実)に即したものだったらしく、田道間守はデストールの言葉に首肯した。 「この木は私が植えたものです。黄泉の国で見付け、一度 地上世界に8枝を持ち帰ったのですが、4枝を地上に残し、4枝を持って この黄泉の国に戻り、ここに植えました。消えたと思っていたのに――この木も私自身も……」 では、この復活現象は、冥界や黄泉比良坂という“場”だけではなく、一度は消えた死者の魂も蘇らせているのだろうか。 どうやら、そのようだった。 「冥界に生きたままでやってきて、橘の枝を持って 生者の国に帰り、すぐにまた冥界に戻られたのですか?」 いったん地上に持ち帰った枝を ここに戻って、枝の死なぬうちに再び植えたというのなら、彼は せっかく帰った生者の国に 長い時間 留まることをしなかったのだろう。 冥界に会いたい人でもいたのか、彼は すぐに冥界に戻ったのだ。 田道間守が、切なげに目を伏せる。 「ええ。我が君 イクメノミコト様は、素晴らしい方でした。あの方が出された殉死の禁令で、どれほどの人間が家族や友を失わずに済んだことか。私は、我が君に、いつまでも若く美しいままでいてほしかった。決して、死んでほしくなかった。だから 私は、イクメノミコト様のために、黄泉の国にあるという、非時香菓を探す旅に出たのです」 「トキジクノカクノミ?」 「不老不死の実。つまり、冥界にあった橘の木の実のことよ。田道間守が人間界に持ち帰ったと言われているわ」 病は医者、歌は公家、弓矢の道は武士が知る。 生死に関わることは、デストールが生き字引ならぬ死に字引のように詳しかった。 「そうです。非時香菓は、時の経過に関わりなく、香りも味も変わらない果実。不老不死の実です」 田道間守は彼が仕える君主のために、それを求め、冥界にまでやってきたのだ。 秦の始皇帝に不死の薬を献上すると持ち掛けて 金品を詐取して逃亡した徐福などとは、忠義と敬愛の質が違う。 「私は10の年月をかけて、冥界に辿り着き、非時香菓を見付け、イクメノミコト様の許に帰りました。だが、私は遅かった……。私がイクメノミコト様の許に帰り着く数ヶ月前に、イクメノミコト様は亡くなり、冥界に向かっていたのです。私が あと数ヶ月早ければ……」 無念の思いをにじませて、彼は唇を噛みしめた。 「帰国して、我が君が亡くなったことを知った私は、私が探し出した非時香菓をイクメノミコト様に渡すため、イクメノミコト様の後を追って、冥界にまいりました。 「……」 殉死を禁じた人の後を追って、死んだのか。 死んだ人に、不老不死の実を渡してどうなるというのか。 瞬が悲しく思ったことを、ナターシャは素朴に疑問に思ったらしい。 ナターシャは、氷河の腕の中で、難しい なぞなぞに出会った時のように眉根を寄せた。 「タチバナの実は冥界にあったんでショ。イクメさんは死んで冥界に来たんでショ? タジマのお兄ちゃんが持ってこなくても、タチバナの実は冥界にいっぱいあったのに、ドーシテ?」 タジマのお兄ちゃんは、自分が死んで届ける必要はなかったのに、どうして。 ナターシャの疑念は、至極当然のものである。 全く合理的でない田道間守の振舞い。 しかし、それは、謎でもなければ、不思議でもないのだ。 「ナターシャちゃん。田道間守さんにとって、非時香菓は 『僕は あなたのために頑張りました』っていう証明書みたいなものなんだよ。田道間守さんは、自分が見付けた非時香菓を 自分の手でイクメさんに渡したかったんだよ」 それが謎でも不思議でもないことを、実はナターシャも知っていた。 「ナターシャ、わかるヨ! ナターシャがパパにあげるために探した綺麗な葉っぱや四つ葉のクローバーは、ナターシャが自分でパパにあげるヨ。パパも、マーマへのお花は 自分で選んで、自分で渡す。絶対、お届けにはしない。トキジクノカクノミは、タジマのお兄ちゃんのアイのアカシなんダネ!」 大人の心を正確に推し量る幼い少女に驚き、微笑み――それから、田道間守は 苦しそうに顔を歪めた。 「その通りです。私は、冥界で我が君を探し出して、私が見付け出したものを 我が君に渡すつもりでした。しかし、冥界は、自死を遂げた者には厳しく、私は我が君とは遠く離れた地獄第七圏に投げ込まれてしまった。そこで長い時間をかけて罪を贖ってから、私は我が君を探して冥界を彷徨い続けました。今も探し続けています。一度 冥界は消えかけた。砂粒のように小さくなった。その時、に 私も一度 消えかけたのですが、それが今また、少しずつ大きくなって……。きっと我が君も どこかで蘇っているはず。私は我が君を探し続けます。幸い、時間はいくらでもある」 日本で殉死が禁じられた頃といえば、大型古墳に埴輪が置かれるようになった頃である。 では もう2000年近く、この人は この人の愛する美しい人を探し続けているのだ。 その思いの強さに、黄金聖闘士の小宇宙ですら太刀打ちできるかどうか。 冥界が蘇りつつあるのは、こういう人たちの思いが募ってのことなのだろう。 ハーデスの力も作用しているかもしれないが、ハーデスの力だけではない。 冥界を必要としている人間が多くいる。 その思いは大きな力なのだ 神ではなく、人。 たった一人の死者に出会うことで、デストールも冥界の復活劇に合点がいったようだった。 「冥界の復活は、不思議なことでも何でもなかったのね」 そう言って、彼は、田道間守の前で、彼の橘の木の一枝を折り、それをナターシャに手渡した。 「美貌を守る不老不死の実。そのままじゃ酸っぱすぎて食べられないでしょうから、パパにマーマレードにしてもらいなさい」 それが自身の愛の証だとわかってくれた少女の手に橘の枝と実が渡ることに、田道間守も文句はないらしい。 むしろ彼は喜んでいるようだった。 「アタシも消え損ねたみたいだし……。もう しばらく、この世界を見守っていることにするワ」 小さな 可愛い おみかんが幾つも成った枝をもらって、ナターシャはご機嫌である。 お菓子の摘まみ食いの件は、これで帳消し。 「タジマのお兄ちゃん、カニのおじちゃん、マタネ!」 死者に『またね』は不吉なのか、必然なのか。 生きていても、死んでいても――人の思いは強い。 その強さに感じ入って、橘の一枝を手土産に、生者たちは 元の世界に戻ったのだった。 |