「パパ!」 呼ばれなれた呼称だが、氷河は返事をしなかった。 呼んだのがナターシャではなかったから。 だから、氷河は、それが自分を呼ぶ声だとは思わなかったのだ。 たとえ その呼び声の主が、氷河の真正面に立ち、氷河の顔をまっすぐに見上げて 氷河以外の誰も何も視界に入れずに、『パパ』という呼称を口にしたのだとしても。 だから、氷河は、黙っていたのである。 そもそも、公園で突然 見知らぬ少女にパパと呼ばれた時、どんな反応を示すのが妥当で適切で一般的な振舞いなのかを、氷河は知らなかった――思いつかなかった――のだ。 見知らぬ少女の歳はナターシャと同じくらい。 身長もナターシャと同じくらい。 だが、比較的 やせ型のナターシャより更に――かなり細い。 髪は肩に届くほどのセミロングで、色は黒。瞳の色も同じ。 紺色のTシャツに、黒とグレイのシェパードチェックの綿のパンツ。 長い髪をリボンで飾り、袖のふくらんだ白のブラウスに、緋色のサテンのミディ丈フレアスカート着用のナターシャとは、“ガーリーとボーイッシュ”というフレーズだけでは表現しきれないほど対照的な少女である。 彼女は、一言で言えば、“身なりに ほとんど手がかかっていない”少女だった。 「アナタは だあれ。パパをパパって呼んでいいのは、ナターシャだけダヨ! ナターシャじゃない子は、パパのこと、“ナターシャちゃんのパパ”って呼ばなきゃいけないんダヨ!」 無言で無反応の氷河に代わって、その少女の相手を始めたのはナターシャだった。 見知らぬ少女が、自分のパパをパパと呼ぶ。 大好きなパパを よその女の子に取られるとでも思ったのか、ナターシャの口調には 隠しきれない対抗意識がにじんでいた。 氷河の手を握りしめているナターシャの指には、いつもより強い力がこもっている。 見知らぬ少女は、そんなナターシャの顔を見、氷河の顔を見上げ、それから しばし何事かを考え込む素振りで下を向き、今度は、 「ミコちゃんのパパ!」 と、氷河を呼んだ(ようだった)。 「……」 『ミコちゃんのパパ』とは何なのか。 ナターシャは意味がわからなかった。 氷河も意味がわからなかった。 そもそも“ミコちゃん”とは誰なのか。 謎が謎を呼ぶ光が丘公園。 結局、氷河に続いて ナターシャまでが、電気の切れたスマートフォンのように動きがなくなってしまい、そんな二人のあとを引き継いで、次に動き出したのは瞬だった。 見知らぬ少女の前にしゃがみ込み、視線の高さを彼女と同じにする。 にっこり笑ってから、瞬は彼女に、 「君の名前はミコちゃんっていうの?」 と尋ねた、 ミコちゃんが、こくんと頷く。 その脇で、氷河とナターシャも大きく頷く。 何のことはない。 ミコちゃんは、自分の名に“ちゃん”をつけて、自分を呼んでいたのだ。 「ミコちゃんのママはどこにいるのかな?」 「ミコちゃんのママは、お仕事に行ったの。ママは、ママのお仕事が終わるまで パパのところにいなさいって言ってた」 「そっか。ミコちゃんのママは お仕事をしてるんだ。ミコちゃんのママは、このおじちゃんをミコちゃんのパパだって言ったの?」 「うん。ちびっこ広場に来る、きらきらの髪の人がミコちゃんのパパだって」 「ミコちゃんのママは、氷河を指さして、あれがパパだよって言ったんじゃないの? 別のきらきらの髪の人がいたら、その人がミコちゃんのパパかもしれないよね」 「ママはいつも、他の人は 偽物の金髪だって言ってた。ちびっこ広場に来る 本物の金髪の人は一人だけだって」 「そうなんだ。じゃあ、ミコちゃんのママは、以前にも ちびっこ広場で ミコちゃんと一緒に、このおじちゃんを見たことがあったんだね」 「ウン」 「その時には、このおじちゃんを ミコちゃんのパパだとは言わなかったんだ」 「ウン」 「ミコちゃんのママのお仕事は、今日のうちに終わる お仕事なのかな。ミコちゃんは、ママのお仕事が何なのか、知ってる?」 「知らない」 「残念。知らないんだ」 職務質問する瞬とミコちゃんの横で、氷河が微妙に顔を歪ませているのは、ミコちゃんの発言に思うところや言いたいことがあるからではなく、瞬が口にする『おじちゃん』という呼称に引っかかっているからのようだった。 それが気に入らないからといって、『お兄ちゃんと呼べ』とも言えず、彼は居心地が悪いことになっているらしい。 ともあれ、一連のミコちゃんとの質疑応答で わかったことは。 ミコちゃんにはママがいる。 ミコちゃんとミコちゃんのママは、以前にも ちびっこ広場で氷河の姿を目撃していた。 その際、ミコちゃんのママは、氷河の髪を本物の金髪、それ以外の人間のそれを偽物の金髪と表した。 そして、その時には、氷河をミコちゃんのパパだとは言わなかった。 それが今日、突然、ちびっこ広場にいる本物の金髪の持ち主が ミコちゃんのパパだと言い出したのだ。 そして、ミコちゃんに パパと一緒にいるように命じ、自分は仕事に行ってしまった。 その仕事が何なのか、その仕事が いつ終わるのかを、ミコちゃんは知らない。 ――等々。 ミコちゃんは、ちびっこ広場にやってくる金髪の別人と氷河を取り違えて、氷河をパパと呼んだのではない――人違いをしているわけではない――ようだった。 ミコちゃんは、彼女のママがパパだと言った人物を、間違えることなく、『パパ』と呼んだのだ。 「ミコちゃんのママは他にいるんだ。この子は 僕の娘じゃないみたいだね」 「……」 地上で最も清らかな心の持ち主が、まさか皮肉など言うはずがない。 それは ただの事実の確認なのだ。 そのはずだった。 にもかかわらず、氷河の顔は引きつってしまったのである。 |