イオアニナの国王は、その時 万神殿で 瞬に下された神託を訊いた者たちに、その神託を秘匿中の秘匿、極秘中の極秘として、箝口令を敷いた。
その神託が もし他国に知れるようなことにでもなれば、王子を奪って、世界を我が物にしようとする者が現れること必至。
神託を受けた王子を有するイオアニナの国がギリシャの――世界の――覇者となる時が来るかもしれないという期待や喜びに浸り 得意がることよりも、王は 王子を守ることの方を優先させたのだ。

世界の覇権より大切な息子を奪われては たまらない。
そんなことになったら、王子の母や兄、王子の誕生を喜んでくれた国の民たちが どんなに悲しむことか。
イオアニナ国王は、イオアニナの国の王としても、王妃の夫としても、二人の王子の父親としても、瞬の身を守り抜かなければならなかったのである。

だが、残念ながら――当然のことながら――まもなく、秘密は外部に漏れた。
幼い王子を奪って、世界を我が物にしようとする者は、まず、イオアニナの家臣の中から現れたのだ。
王子誘拐は未遂に終わり、不忠者は国外に逃亡。
逃亡した家臣は、逃亡した先の国で、我が身を保護してもらうために、神託の内容を その国の王に知らせてしまったのである。

逃亡先の国では、逃亡者のもたらした情報が真実かどうか、イオアニナの国の王子に下った神託が真実かどうかを確かめるために神託を仰いだらしい。
それに対して、『神託を疑うことは神への不敬である』という神託が下る。
その出来事があってから、イオアニナの第二王子への神託は秘密ではなくなり、その内容をギリシャ中の人間が知ることになった。
ギリシャには、二大国 アテナイとスパルタを筆頭に、大小様々 百前後の都市国家が存在するのだが、それらの国の君主たちの目が、自分の国を持たずとも 野心を抱く武人や陰謀家たちの目が、その時から一斉に、ギリシャの辺境の小国イオアニナに注がれることになったのである。


イオアニナ王家にとっては、ギリシャ中 ――世界中が敵になったといっていい事態。
イオアニナの国の民なら信用できるというものではなく、王城を守っている兵士なら安心できるというものでもない。
誰も信じられない。
誰に王子を守らせることもできない。
護衛につけた兵士が、小間使いの少女が、いつ、瞬と世界を手に入れようという考えに囚われるか わからないのだ。
世界のすべてが敵だった。
今は味方でも、明日には敵になるかもしれない。

誰を信じることもできない。
そんな悲しい状況下で、イオアニナの国王は、王子を守るために、驚くべき策を講じたのである。
誰も王子に触れることができないように。
誰も王子の命を奪うことができないように。
イオアニナ国王が講じた策は、『毒を以て毒を制す』――王は、毒で我が子を守ることを考えたのだ。

エジプトやインドでは、敵への贈り物として、体内に毒を含んだ娘を差し向けることが知られていた。
幼い頃から少量の毒を与えられ続けた娘たち自身は毒への耐性ができていて、毒で死ぬことはないのだが、毒に耐性のない者は 娘に触れると、毒に侵され 命を落とす。
そんな毒性体質の人間を、エジプトやインドの王侯は敵を倒すために養ったのだが、イオアニナ国王は 逆に、我が子を守るために、我が子自身を毒性人間に育て上げることにしたのである。
幼い頃から少しずつ毒を与えて 毒への耐性を持たせ、やがて 王子自身が毒そのものになるように。
尋常では考えられないことである。
だが、そんな残酷で非情な方法に依らなければ、世界を支配する帝王の王冠と言っていい瞬の身を守ることはできそうになかったのだ。


イオアニナ国王の策は図に当たった――のだろう。
今年16歳になる瞬が、誰にも、どこの国にも奪われることなく、いまだにイオアニナの王城で暮らせているのだから。
瞬と瞬の身は守られた。
ただし、そのために払われた犠牲は小さなものではなかった。

瞬が8歳の時に母が亡くなり、13歳の時に父王が亡くなったのは、瞬王子の身体に沁み込んだ毒のせいだと言われている。
瞬が身体に帯びた毒のせいで死んだ従者も少なからず いるらしい。
そのため、イオアニナの王城の東に立つ塔――瞬王子の住む区画は、現在でも限られた人間しか足を踏み入れることのできない禁忌の塔とされていた。
イオアニナの民は、ごく稀に 東の塔の窓辺に立つ瞬の姿を仰ぎ見て、美しいがゆえに一層 悲しい 王子の風情に同情し、そして、恐れ忌避するのだった。

誰よりも愛らしく、誰からも愛されていた王子が、身体に沁み込んだ毒のせいで、誰からも恐れられ忌み嫌われている。
それは不幸なこと、おぞましいことである。
だが、その不幸が、おぞましい毒が、これまで 効果的に瞬を守ってきたのである。

毒性人間は、身体が毒そのもので、普通の人間は直接 肌に触れることは不可能。
実際に そうなのかどうかは定かではないのだが、そう言われていた。
となると、単純に(?)さらうことはできない。
直接 触れなければいいのか、一定の距離を置いていれば安全なのか、そういったことは、瞬の ごく身近に仕える者しか知らず、知っていても誤って命を落とす従者がいるというのだから、近付かないのが いちばんの安全策と言えた。

直接 触れるのが無理なら、国ごと 我が物にすればいいと考えて、人口10万の小国イオアニナに、5万の大軍で攻めてきた国もあった。
だが、その大軍は、イオアニナの国に向かう途中に山津波に襲われて、大半が戦わずして滅んでしまった。
その大事件によって、毒だけでなく 神もまた瞬を守っているのだということ、神は 滅多な者に瞬を渡すつもりはないのだということに、ギリシャの人々は気付いたのである。
神託の重さを、ギリシャ全土が知ったのだった。






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