ある夏の夜。
月は白く丸く明るく、だが 遠いところに 小さく静かに佇んでいるせいで、星の数が いつもより多く感じられる夜。
堅固に守られたイオアニナの王城の東の塔に、一人の男が忍び込んできた。
瞬のいる東の塔は、1階に出入り口はなく、王城の主殿にある国王の居室のある2階から続く渡り廊下を渡っていくしかないのだが、その侵入者は外から――いったん塔の屋根に登り、そこからロープを使って窓に取りつき、全く無防備な窓から塔の内部への侵入を果たしたようだった。

塔の屋根には どうやって登ったのか。
それが そもそも瞬にはわからなかったのだが。
というより、突然 毒性人間の私室に現れた見知らぬ若い男に驚いて、瞬は、彼がどういう経路で 塔の内部に侵入してきたのかを考えるどころではなかったのだ。
彼は毒性人間に対する保安距離を侵していた。

「それ以上、僕に近付かないで。あなたは自殺志願者なの? 僕が何者なのかを知らないの? 僕は毒性人間です。誤って触れでもしたら、あなたは即座に命を落とします」
侵入者は、瞬と侵入者が いっぱいに腕を伸ばせば、指先が触れ合うほどの位置にいた。
一瞬、気が遠くなりそうになった自分に活を入れ、瞬は急いで、後ろに後ずさる形で、彼から離れたのである。
彼が立つ場所から 室内で最も遠い場所に移動し、移動し終えてから、『なぜ部屋の主である自分の方が逃げているのか』と、自分自身の行動を奇異と不審の念を抱く。

だが、
「吐く息まで毒というわけではないんだな。王子の側に近付きすぎた従者が何人も死んでいるという噂はデマか」
と侵入者が言うのを聞いて、瞬は更に それどころではなくなってしまったのである。
瞬は血の気が引いた。
本当に、全身のすべての血が瞬時に失せてしまったかのように、身体と心が冷えきった。

「僕に近付きすぎると死にます。距離を置いていても、長い時間 同じ場所にいるのは危険です。触れれば、命を落とすのは確実です」
努めて冷静を装って告げたのだが、はたして どこまで装いきれていたのか、瞬にはわからなかった。
侵入者は、部屋の主が前触れのない来客に慌て困惑していることを、完全に見抜いてしまっていたかもしれない。
瞬の脅しに怯んだ様子も見せずに、
「毒性人間というのは、おまえの身を守ろうとする おまえの親族が、おまえの周囲に張り巡らせた嘘の煙幕なのではないかと、俺は疑っているんだが」
と訊いてきたところを見ると。

「試してみますか」
間髪を入れずに、瞬が反問すると、侵入者は一瞬、そして、初めて――怯んだ。
それを見て、瞬は ほっと安堵の息を漏らしたのである。
侵入者が死を恐れていることを知って。
侵入者が生を望んでいることを知って。

「一瞬でも 怯むということは、あなたは自殺志願者ではないんですね。それなら、僕の毒を試すのはやめた方がいい。少なくとも、今日は。僕の毒の力を試すことは、生きているのがつらくなった時、いつでもできますし」
もちろん、そんな時は永遠に来なければいい。
それでも どうしても死にたいのなら、違う死に方を選んでほしい。
そう、瞬は思った。
彼を ここに運んだものが、自殺願望でなく、世界を支配する帝王になる野心なら、また別の問題が出現することになるのだが、とりあえず。

世界を支配するという野心に取り憑かれているにしては、彼には ぎらついているところがなく、人生に 前のめりな空気も、命を生き急いでいる印象も感じられない。
命を捨てたい者と、世界を欲しい者。
この塔を訪れる他人は そのどちらかしかいないと 瞬は思っていたのだが、彼は そのどちらにも見えなかった。
では、いったい彼は何のために ここにやってきたのか。
瞬は改めて、侵入者の様子を まじまじと見詰め、観察し、その美しさに初めて気付いて、目をみはったのである。

ギリシャの人間には滅多にない光の色の髪。
海の色の瞳。
彼の目的がわからない――察することすらできないのは、彼の表情や眼差しが温かいのか冷たいのか、判別できないから。
生きたいのか、死にたいのか。
欲しているのか、避けているのか。
愛しているのか、憎んでいるのか。
あらゆることが、どちらなのかが わからないのだ。

もしかしたら、どちらでもないのかもしれない。
どちらでもあるのかもしれない。
――得体が知れない。
ただ、侵入者が美しい青年であることは 紛う方なき事実だった。
しかも、まだ若い。
大人びた表情をしているが、へたをすると まだ十代ということもあり得そうだった。
その侵入者が、瞬に問うてくる。
対峙している人間の正体がわからずにいるのは、瞬だけではなかったらしかった。

「落ち着き払っているな。世間知らずの王子様の部屋に無許可で入り込んできた不審な男。普通なら、殺されるとか、さらわれるとか、いろいろ考えて、恐慌状態に陥るものだと思うんだが」
得体の知れない侵入者は、この国の王子が 彼の予想通りの振舞いをしないので、困惑しているらしい。
彼は この国の第二王子 ――今はむしろ、王弟 ――が普通の王子ではないことを失念しているようだった。

「殺されかけるのも、さらわれかけるのも、子供の頃から慣れていますから。でも、あなたの登場は久し振りのことだったので、少し慌ててしまいました」
「慣れるようなことではないのに、大変だな」
「そんなふうに 労わられるのは、初めてです」
「そうなのか? 余裕のない奴が多いんだな」
この部屋の住人は、対処方法を間違えると その毒によって命を落としてしまうかもしれない有毒人間。
余裕をもって接することのできる人間など、いるわけがない。
それ以前に、この塔の この部屋にまで入り込むことのできた侵入者は、これまでに 数えるほどしかいなかったのであるが。

「ええ」
くすくすと、瞬は 声を出して笑った。
『大変だな』どころか、『ごきげんよう』も言われたことがない瞬としては、笑うことしかできなかったのだ。

「笑った」
笑うことしかできないから笑っただけの瞬を見て、侵入者が驚く。
瞬も驚いた。自分に。笑っている自分自身に。
「笑うのも、久し振りです」
「笑うと、可愛い。笑わないと、綺麗なだけだが」
「“綺麗なだけ”というのは、誉め言葉ではないですね」
全く野心や害意が感じられないせいか、瞬は いつのまにか その侵入者と 普通に(?)言葉を交わし始めていた。
兄以外の他人と 会話を成り立たせるのは、“笑う”ことほどではないにしろ、久し振りのことだった。

「“綺麗なだけ”なら 褒めてはいないな。おまえの“綺麗”は褒めるに値する綺麗だと思うが、それでも 綺麗なだけではなあ」
ここで、『あなたの方がずっと綺麗です』と告げたら、この侵入者は どんな反応を見せてくれるのか。
それを見たいという欲求は強かったが、瞬は我慢した。
彼は 友だちでも味方でもないということを思い出して。
では、彼は何者なのか。
それを彼に問う。






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