氷河の身の上話は、至極 ありふれているようで、だが、氷河でなければ そんなことにはならないだろうと思えるような、実にユニークなものだった。 ギリシャの北方にあるヒュペルボレイオスの国に、氷河は生まれたらしい。 イオアニナがギリシャの辺境なら、ヒュペルボレイオスは世界の辺境。 更に その北の端というから、アテナイやスパルタ等、いわゆるギリシャの都会の住人からしたら、もはや秘境の地なのかもしれない。 父は最初からいなくて、母に育てられた。 「母は、女手一つで、苦労して俺を育ててくれたんだ。母は俺の自慢だった。綺麗で優しくて、俺を深く愛してくれた。母より美しい人を、俺は知らない」 氷河の母というだけで、そして、氷河ほどの美貌の主が そう言うのなら、彼の母が どれほど美しい女性なのかは、容易に察せられる。 氷河が彼の母をどれほど愛しているのかは、母を語る彼の口調から、一層 容易に察せられた。 氷河は彼の母に深く愛され、深く愛し、かつ、かなりの甘えん坊だったらしい。 「マーマが死んで、俺は すっかり生きる気力を失ってしまったんだ。でも、マーマは俺の命を守るために自分の命を投げ出した。マーマに助けられた俺が死ぬわけにはいかない。だが、マーマがいないのに、何のために生きればいいのかが、俺には わからない。だから 俺は――俺には、一生かかって、何とか やり遂げられるような困難な目的が必要だったんだ。俺にしか 成し遂げられないような大きな、生きる目的が。でないと、死にたくなるから。で、俺は、一平民から 世界の帝王になることにした」 実に壮大な“生きる目的”である。 大抵の人間は、それを、“生きる目的”とは言わず、“夢”と言うだろう。 瞬自身、自分を我が物にして 世界を手に入れようという野心を抱くのは、既に一国を治めている国王や、相当規模の軍隊を有している軍人たちなのだろうと、決めつけていたところがあった。 だから、氷河のことも、いずこかの国の王子と思い、そうであることを疑わなかったのだ。 「あまり普通でも一般的でもないですけど、理に適っているような気がします」 氷河には、それくらい壮大かつ達成困難な“生きる目的”が必要だったのだろう。 それほど壮大かつ達成困難な“目的”でないと、容易に目的が達成されてしまうから。 そうして 彼は生きる目標を見失い、途方に暮れてしまうから。 王位や軍隊どころか、自分の家すら持っていなかった氷河は、母亡きあと、何らかの力を得るために まず、ギリシャの聖域に行き、アテナの聖闘士になるための修行をしたらしい。 「当座の住みかと 武力や権力に代わる何らかの力を獲得することを考えたんだ。それで普通の人間には持ち得ない戦闘力を手に入れた。聖衣まで貰うつもりはなかったんだが、聖闘士になる資格を得たら、聖闘士にならなければならないというので、聖闘士になった」 この青年は、事も無げに、いったい何を言っているのか。 どれほど なりたいと思い、一生 努力を続けても、聖闘士になれない者がほとんどだというのに。 氷河の言い草に、瞬は呆れてしまったのである。 だが、ともかく それで、氷河が容易に この塔に侵入できた訳はわかった。 アテナの聖闘士の身体能力と運動能力がどれほどのものなのかは知っている。 アテナの聖闘士が、まさか世界征服などという低俗な野心を抱くことがあるはずがないと考えて、この塔の警備は 一般人だけを念頭に置いて考えられているのだ。 「僕の兄もアテナの聖闘士ですよ」 瞬が告げると、 「一国の王が?」 氷河は、それこそ非常識と言わんばかりの口調で、瞬に反問してきた。 一国の王という権力を既に持っている者には、アテナの聖闘士のような個人的な戦闘力は不要と、氷河は考えていたのだろう。 そうなのかもしれなかった。 瞬の兄は、『その子供を我が物とした者が、この世界を己が手に収めることになるだろう』という神託を受けた王子の兄だったので、アテナの聖闘士の力も必要としたのだ。 「ええ。僕の兄は、僕を守るためにアテナの聖闘士になりました。氷河が氷河のお母様を愛し、自慢に思うように、僕も僕の兄を愛し、自慢に思っています」 瞬の その気持ちが、氷河には よくわかるらしい。 彼は、切なく深い微笑のようなものを 唇の端に刻んで、頷いた。 だが、どれほど達成困難な生きる目的を設定していても、愛する人がいないのに生き続けることは、氷河には かなりの苦痛らしかった。 彼の得心の表情に、溜め息が混じる。 「人はなぜ 一生を生き抜くなんて、退屈で、結局 何にもならないことができるのか、俺には それが不思議でならないんだ。どうせ、人は皆、最後には死ぬのに。王も平民も奴隷も、男も女も、美しい者も さほど美しくない者も、最後には皆。マーマに授けられ、マーマに育てられ、マーマに守られた命を、無下に捨てることはできないが、俺は俺が生きている意味がわからない。おまえは何のために生きているんだ?」 世界を我が物にするという“生きる目的”を実現するために ここにやってきた人間に、まさか そんなことを訊かれるとは。 瞬は、この地上世界で最も自由でなく、生きる目的や夢を持つことすら許されていない人間だというのに。 「僕を訪ねてくれるのは、世界を我が物にするために、僕をさらおうとする人や僕を殺そうとする人ばかりなのにね。でも、父と母は僕を愛してくれた。兄も僕を愛してくれている。だから、僕は死ねないんですよ」 氷河が、深い溜め息と共に頷く。 「わかる。そうではない人間もいるんだろうが、俺とおまえは同じだ。自分のためには生きられない。愛してくれた人のために生きる」 「うん……」 氷河の言葉に首肯して、瞬は つい そんな自分に――自分たちに、失笑してしまったのである。 今日 初めて出会った二人。 『敵か味方か』と問われれば、二人の立ち位置は “どちらかと言えば、敵同士”。 そんな二人が、何度 互いの言葉に賛同し、共感し、頷き合っているのだろうと。 だが、瞬には 本当に、氷河の気持ちが よくわかるのだ。 『生きていたい』という強い情熱はない。 何のために生きているのか、わからない。 だが、死ぬわけにはいかない。 その、中途半端で、どっちつかずな気持ち。 氷河は おそらく、彼のマーマが生きていたら、そんな気持ちにはならなかったろう。 美しく優しく愛情深い、大切なマーマ。 彼女を幸福にするために、一生を情熱的に意欲的に前向きに生きたに違いない。 人を一人 幸福にすることは、世界を我が物にすること以上に、困難で やり甲斐のある“生きる目的”なのだから。 「氷河は、氷河のマーマが生きていたら、きっと 生きる目的のために、こんなところに来ることもなかっただろうね」 瞬に そう言われた氷河が、驚いたように顔を上げ、無言で、瞬の顔を見詰める。 氷河は やがて、 「ああ」 という、嘆声とも快哉の声ともつかぬ声を漏らした。 母の面影を探すように、窓の外の星空に一瞥をくれる。 「そうだな。俺は、マーマが生きていてくれれば、それで普通に幸せだったんだ。おそらく、何のために生きるのかなんて、考えもしなかった。考えるまでもなく、マーマのために決まっている。そして、人を一人、幸福にすることは、そう簡単なことじゃない。生きる目的としては、最も難しい、最も やり甲斐のある、最高のものだ」 「そうだね。氷河が欲しいものは、世界でも権力でもない。たった一人の愛する人なんだと思うよ」 「ああ、そうだな」 いったい、これで何度目になるだろう。 氷河は、瞬に頷いた。 「人は皆、最後には死ぬ。そんな空しい存在の生きている意味など、考えるだけ無駄。生きている間、愛する人がいればいい。自分なぞのためには生きられない。自分だけでは 幸せを感じることはできない。だが、愛する人のため、愛する人を幸せにするためになら、人は生きられる。自分自身も幸せになれる。それだけのことだ」 「うん。わかる……」 『わかる』と言いながら、瞬は、『この人は いったい何なのだろう』と、心の底から不思議に思っていたのである。 今日 初めて出会った人。 これまで、世界の覇者になるという野心を抱いて 瞬の許にやってきた者たちとは何もかもが違う、奇妙な青年。 一緒にいるのが心地良い。 ずっと一緒にいたい。 もっと親しくなりたいとさえ 思う。 そんなことができるわけがないのに。 いくらアテナの聖闘士といえど、全身に毒を帯びた人間に触れれば、彼は死ぬしかないだろう。 その時、月が雲に隠れた。 部屋の中の灯りは、オリーブの油を使った小さな灯火だけ。 人間は、明るさの変化で時間の経過を認識するようにできている。 神託の王子への挑戦者にしては 奇異で異例な氷河も、その点は、他の人間と同じだったらしい。 神託の王子を さらうか、殺すか、それすら決めずに この塔に乗り込んできた彼は、しばし 悩んで、自分が これからどうするのかを決めた――すぐには決めないことを決めた――ようだった。 「もともと 今日はただの下見のつもりだったんだ。これから どうするかは、俺の出来の悪い頭では すぐには思いつかない。決めるには 時間がかかりそうだ」 「そんな呑気な世界の帝王志願者は初めてです」 「俺が呑気なんじゃない。他の奴等がせっかちなんだ」 氷河は そう言ったが、そうではないことを瞬は知っていた。 世界の覇者になる野心を抱いて、瞬の許まで辿り着くことができた人間は、瞬が10歳になる以前に7、8人。 彼等は、瞬をさらうか殺すつもりだったから、迅速に行動しなければ 自分が捕まり処罰されることを知っていたのだ。 彼等には、氷河ほど余裕がなかった。 余裕のある氷河は、瞬に、 「また来ていいか」 と尋ねてきた。 「夜が明けてから1回。日没前後に1回。日に2回、兄がここに来てくれるの。鉢合わせしたら 大ごとになるから、その時間は避けてくださいね」 世界征服の野心を持つ人間に そんなことを言う自分はおかしいと思いながら、瞬は氷河に そんなことを言った――言ってしまっていた。 |