美形と野獣






放浪癖というのは、当てもなく さまよい歩く癖のこと。
あるいは、ふらふらと どこかにいなくなる性質のことを言う。
だから、一つの場所に定住しない人間もしくは定住できない人間を指して “放浪癖のある人間”と呼ぶのは間違っている。――と、一輝は常々 思っていた。
毎日 家を出て、その周辺を ふらふら歩きまわる人間は“放浪癖のある人間”だろうが、一つの場所、一つの家に長く留まっていない人間のそれは、“癖”ではなく“意思”あるいは“気質”なのだ。
そういう人間の放浪の目的は、逃避、自由の獲得、あるいは、何事かの探索、希求等、人それぞれだろうが。

一輝自身が『これは癖ではなく意思だ』と考えているにもかかわらず、彼は、“放浪癖のある男”と思われていた。一つ所に落ち着くことのできない男だと。
一輝の放浪が 癖なのか意思なのかという問題は ともかく、彼が 長期間 一か所に定住することをしない男だというのは、実際 その通りで、彼が 彼の家にいるのは、1年に10日もあればいい方だった。

『なぜ家にいないのだ?』
と彼に問うと、
『俺は群れるのが嫌いだ』
という、少々 的外れな答えが返ってくる。
その的外れな答えは、彼の家に彼の家族と呼べる者たちがいることを示している。
そして、実は、一輝が家を出て、1年のほとんどを 世界のあちこちを ふらついて過ごしているのは、“家に帰るため”だった。
それがわかっているから、彼の家族たちは、一向に家に落ち着こうとしない一輝の放浪癖を大目に見てやっているのだ。
それに なにしろ、帰還には お土産という楽しい事物がつきものだから。


夏。
一輝は三ヶ月振りに彼の家に帰ろうとしていた。
彼の家というのは、だが、彼の両親の住む家ではない。
一輝には親はない。彼が幼い頃に亡くなった。
彼の家で 彼を迎えてくれる“家族”は、彼の親ではなかった。
その家は、ギリシャのほぼ中央――つまり、海沿いではなく山岳地帯の小さな村にある。
彼は そこに、彼の弟と、彼等兄弟同様 両親のない三人の仲間――星矢、紫龍、氷河――と、共同生活を営んでいた。

今から3ヶ月前、家を出る時、一輝は、彼の弟に、
「誕生日には帰ってきてくださいね。兄さんの誕生日の お祝いをしたいから」
と言われていた。
そして、今は8月初頭。
8月中旬の彼の誕生日には半月も早い帰還になったのは、誕生日に家に帰り、“兄さんの誕生日の お祝い”などされては たまらないと思っていたから。
しかし、『帰ってきてくださいね』という最愛の弟の願いを無視することもできなかったので、一輝の帰還は、彼の誕生日の半月前という、実に中途半端な時期に為されることになったのだった。

一輝は仲間たちに、土産を頼まれていた。
畑仕事が趣味の紫龍からは、野菜の種。
「この辺りでは見掛けない、珍しい野菜の種がいいな。ここの土と気候でも育つかどうか、試してみたい」
という注文。

“食欲旺盛、永遠の育ち盛り”星矢からは、アーモンドの粉と砂糖。
「それで、瞬にマルチパンって お菓子を作ってもらうんだ!」
と、星矢は意気込んでいた。
最近、イスラム世界から伝えられた、アーモンドを挽いて粉にしたものと砂糖を練りあわせた餡のような菓子が、スペインやシチリアで流行っているらしい。
食べ物に関することにだけ、星矢は超情報通だった。
自分で作ろうとしないのは、彼が食べる方の専門家だからである。

そして、一輝の実弟の瞬は、
「兄さんの無事な姿を見られれば、それがいちばんのお土産ですよ」
と、可愛いことを言ってくれた。
瞬が兄に望む土産は、いつもそれである。

ローマとアヴィニヨンでは教会大分裂。
イタリアでは、古代ギリシャやローマの文化を見直す文芸復興の動き。
ギリシャの都市部では、オスマンの影響力が ますます増している。
一輝の故郷は、そんなふうに かまびすしい外界からピンドス山脈によって隔絶された、隠れ里のような村だった。
山の陰に静かに眠るように佇んでいる辺境の小さな村は、おとぎ話のように のどかで、外界の騒乱とは ほぼ無縁。
その村に帰ることは、安らぎと穏やかさの中に帰ることである。
もちろん、嬉しい。
なのに、なぜ自分は その平穏の中に落ち着いていられないのか。
時折、一輝は そんな自分を不思議に思わずにいられなかったのである。
もしかしたら、それは 平和な故郷を持つ自らの幸福を噛みしめるためなのかもしれない――と、思わないでもない。

帰郷に際して、一輝は、紫龍と星矢への土産は 調達済みだった。
『兄さんの無事な姿を見られれば、それがいちばん』と言っていた瞬には、瞬が読みたがっていたダンテの『神曲』の写本と、書きやすいというので評判の羽根ペンとインクを用意した。
おそらく、無駄な装飾の多い流行の服などより ずっと、瞬は喜んでくれるだろう。

問題は最後の一人、氷河への土産だった。
氷河の希望は、
「瞬が家の庭に作っている花壇の入り口に、薔薇のアーチを作ってやりたいから、瞬に似合う いい薔薇の苗を調達してきてくれ」
というもので、その希望に沿うのは なかなかに難しいことだったのである。

薔薇は種では増やさない。
苗木で育て、挿し木か接ぎ木で増やす。
種なら問題はないのだが、苗となると、持ち運びにも気を遣うし、へたな扱いをすると死なせてしまうだろう。
遠くの国のものを手に入れて、何とか無事に故郷の村まで運んでこれても、その苗に 故郷の村の土や気候が合わなければ うまく育たない。
だから 一輝は、それをギリシャ国内で調達するつもりでいた。

今回は、神聖ローマ帝国を中心に、中央ヨーロッパを巡ってきた。
その後、マケドニアから ギリシャに入り、テッサリア方面に南下。
国境を越えてギリシャに入り、故郷の村に向かう途中に通る町や村々のどこかで、薔薇の苗など すぐに手に入れられるだろうと、当初 一輝は安易に考えていた。
ところが、氷河が何気なく付してくれた『瞬に似合う薔薇』という条件が、一輝に安易な買い物をさせてくれなかったのである。

小さい花ではない。だが、大輪すぎてもいけない。
大きさは特別でなくていいが、存在感のある花。
優しい姿と雰囲気を持つ花。もちろん、美しく可憐。
派手すぎたり 目立ちすぎるのは よろしくないが、印象的でなければならない。
色は、温かい白か、上品な薄桃色。

瞬に ふさわしくない花を買っていくと、氷河は一輝を悪趣味と断じ、土産の受け取りを拒否するだろう。
氷河に土産を受け取ってほしいのではない。
土産を喜んでほしいのでもない。
だが、氷河に『俺は こんなものを頼んだか?』と嫌味を言われて、用意した土産を突き返されるのは、不愉快極まりない。
だから 一輝は、『瞬に似合う薔薇の調達は 簡単な仕事ではない』と気付いてからは、かなり真剣かつ熱心に――鵜の目鷹の目で、瞬に ふさわしい薔薇の花を探すようになったのである。
花を売っている市場だけでなく、花壇に薔薇を植えている家があると、その庭を覗き込んで、不法侵入者と誤解されたりもした。

それにしても、美しい薔薇は多いのに――むしろ、薔薇は どの花も美しいのに――瞬に似合う花、瞬に ふさわしい花となると、ただの一輪も見付からない。
どれも イメージに合わない。
花が魅力不足なのか、瞬が特殊すぎるのか、それとも 瞬の兄が弟を特別視しすぎているのか。
そのいずれなのか、すべてなのかの判断はともかく、目的のものに 一輝は なかなか巡り会えなかった。

そんなふうに、ギリシャ国内に入ってから、瞬に ふさわしい薔薇を求めて あちこち寄り道しながら旅を続けてきた一輝は、ついに あと一つ山を越えれば、故郷の村に着いてしまうというところまで来てしまった。
こうなると、へたな花を持ち帰って、氷河に『趣味が悪い』と嫌味を言われるよりは、手ぶらで帰り、『俺の眼鏡に適う花がなかった』で済ませた方が、精神衛生上 いいかもしれない。
そんなことを考えながら足を踏み入れたピンドス山脈。
この山脈を西から抜けるのは、今回が初めてである。
山を登り始めた時は それほどでもなかったのだが、山の二合目に差し掛かったあたりから、道は、思っていた以上に 狭く険しくなってきた。

騎乗のまま進むのは危険だと判断し、一輝は馬を降りて手綱を取り、馬の脚に細心の注意を払いながら 細い山道を進むことになったのである。
馬の背の両脇に括りつけてある荷鞍には、今回の旅の収穫と 瞬への土産が入っている。
万が一にも失うわけにはいかなかった。
――が。

道の険しさも さることながら、さほど高いところを歩いているわけではないのに、空気が薄い。
一輝は、山越えをするつもりはなく、山の山腹―― 三合目辺りを西から東に抜けようとしていたので、その空気の薄さは 完全に想定外のことだった。
鍛えている一輝は平気なのだが、馬の方が倒れそうである。

おかしな山、おかしな状況だとは思ったのである。
おかしいと思いながら、危険で おかしな道を、一輝は進んでいたのだ。
細い道の先に 突然 広い平地が現われ、どう考えても庶民の住居ではない大きな館が出現した時には、『何か おかしいのではないか』が『やはり おかしかった』に変化かつ確定して、一輝は むしろ安堵したのだった。
原因のわからない不安を感じているより、目に見える危険に相対している方が、人の心は落ち着いていられるものである。

異界に迷い込んだのか、それとも、異界の館が こちらの世界にやってきたのか。
何にしても、酸素不足で今にも倒れそうだった馬が、元の調子を取り戻して 軒昂な様子を見せてくれるようになったことは、一輝を喜ばせた。

石造りの古めかしい館である。
一見 ゴシック風なのだが、その周囲は、石壁ではなく鉄柵で囲まれている。
石壁などという堅固だが無粋なもので 館を囲みたくないと館の主が考えたのは、だが、当然のことだったろう。
その館は、美しい薔薇の花園を持っていたのだ。
館の住人だけが楽しみ愛でるには 広すぎ、華やかすぎ、美しすぎる薔薇の花園を。

ここになら 瞬に似合う花、瞬に ふさわしい花もあるに違いない。
『求めよ。さらば、与えられん』
神など信じてはいないが、瞬にふさわしい薔薇を求める心が、このおかしな状況を呼び寄せてくれたのだと一人決めして、一輝は不思議な館の庭に足を踏み入れた。
一輝が 館の住人に開門を求めるまでもなく、門が 勝手に開いてくれたのだ。

これはどう考えても、美しい薔薇を求める自分に 天が贈ってくれたプレゼント。
たとえ そうでなかったとしても、俗に、『花盗人は罪にはならない』と言うではないか。
故郷の村まで、既に山一つ分の距離もないのだ。
苗で持って帰らずとも――枝で切って持ち帰っても、十分に 接ぎ木ができるだろう。
不思議な館の薔薇園には、一輝のこれまでの苦労が嘘のように、瞬に似合う薔薇、瞬に ふさわしい薔薇だらけ。
これで、瞬の兄の趣味の良さに、氷河を恐れ入らせることができる。
――と歓喜して、一輝は、持っていたナイフで次々に薔薇の枝を切っていったのである。

これまで見たことのない薔薇の花を、10種類ほど切り終え、『苗でなくても、これ以上は持って帰るのが難しくなる』と一輝が考えた、まさに その瞬間だった。
「勝手に、我が館に入り、花を盗むからには、相応の罰を受ける覚悟あってのことだろうな。取って食っても、筋が多くて不味そうだが」
という、失礼千万な声が空から降ってきたのは。






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