空を覆い尽くさんばかりの巨大な黒い影――と見えたのは、風に煽られ たなびく黒いフードつきのマントだった。 それが無駄に長く広く、しかも サテンかオーガンジーのように軽い布でできているので、ちょっとした風にも 煽られ放題なのだ。 いくら軽い布でも、真夏の日中、日光を吸収する黒いフードとマントで全身を覆い隠して 暑くはないのかと、比較的 暑さに強い一輝でさえ 呆れた。 この庭の美しい薔薇の花は、どうやら獲物を おびき寄せるためのエサだったらしい。 一輝は、花に惹かれる蝶やミツバチよろしく、まんまと美しい罠に引っ掛かってしまったのだ。 黒マントの化け物(?)は、してみると、蝶やミツバチを狙う蜘蛛の化け物――というのではなさそうだった。 こんな山の中だというのに、潮の匂いがする。 黒マントの正体は、人間を主食とする海獣の類なのかもしれなかった。 得体の知れない海の匂いのする化け物。 ところで一輝は、それが人間であれ、海の化け物であれ、山の化け物であれ、神を名乗る不届き者であれ、倒そうと思って倒せなかったものはなかった。 黙って食われるつもりはない。 しかし、今回に限って言うなら、悪いのは、明確に自分。 許可を得ずに他人の家の庭に入って窃盗行為を働こうとしたのは、一輝の方なのだ。 相手がどんな化け物であれ、問答無用で倒すのは気が引ける。 だから、 「食われては困る」 黒マントの化け物に、一輝は まず そう告げた。 そうして、一輝は、黒マントの化け物相手に、窃盗行為を商取引に変える相談を持ち掛けたのだった。 「門が自然に開いたから、俺は、この庭は自由に見学していい薔薇園なんだろうと思ったんだ。特別に美しい薔薇を土産に欲しいという奴がいるので、この庭の薔薇を分けてもらいたい。無論、相応の代価は払う。人の気配がなかったし、見たことのない薔薇ばかりだったので、これは天からの贈り物に違いないと決めつけた俺が早計だった。本当に申し訳ない」 そんな弁解と謝罪で許してくれるような理性的な存在が、こんな非常識な場所に、これほど非常識な格好で、あれほど非常識な挨拶をしてくるはずがない。 そう思いはしたのだが、とりあえず理性を有する人間として、一輝は、黒マントの化け物に謝罪をした。 意外にも黒マントの化け物は、『謝罪など無用。取って食う!』ではない返事を返してきた。 黒マントの化け物は、 「薔薇を土産に欲しいといった人は、綺麗な人?」 と、一輝に尋ねてきたのだ。 「まあ、綺麗な部類だろうな」 一輝が、中身には言及せず、訊かれたことにのみ正直に答える。 途端に、黒マントの態度は一変した。 「泥棒は頭から一口で食べることにしているが、その綺麗な人を この館に連れてきたら、おまえを食べるのはやめてやろう。泥棒の罪もなかったことにしてやる。ここから生きたまま出してやるから、その綺麗な人を ここに連れてこい。もし 連れてこなかったら どうなるかは わかっているだろうな」 もし 連れてこなかったら どうなるのか、その時 黒マントの化け物は どうするつもりでいるのか、本当のことを言えば、一輝には よくわかっていなかった。 それは よくわかっていなかったのだが、黒マントの願いを聞き届ければ、自分の不法侵入と窃盗未遂の罪が帳消しになり、あの生意気な氷河を厄介払いすることができる。 氷河と黒マントの事情と都合は さておき、自分にはいいことばかりである。 ――ということは、よくわかったのである。 なので、一輝は、二つ返事で黒マントの願いを聞き入れた。 そうして彼は、土産に籠いっぱいの薔薇を馬の背に載せて、三ヶ月振りに 故郷の我が家に帰ることができたのだった。 |