『デイノケイルス』は、ギリシャ語で『恐ろしい手』を意味する。 1965年に、ゴビ砂漠で、手だけで2.4メートルもある化石が見付かり、その後 およそ50年の間、他の部位が見付からぬまま、デイノケイルスは全貌のわからない謎の恐竜とされていた。 手の大きさと3本の鋭い爪から、全長30メートル前後のティラノサウルス型の獰猛な肉食超大型恐竜と推測されていたデイノケイルス。 そんなデイノケイルスの手以外の部分が発見されたのは、巨大な“恐ろしい手”の発見から半世紀後。 その発見によって、デイノケイルスは、手は大きいが、せいぜい全長10メートル程度の、決して小型ではないが、推測されていた30メートルには遠く及ばない大きさの恐竜だということがわかった。 しかも獰猛な肉食恐竜と思われていたデイノケイルスには 歯が1本もなく、鳥のような雑食類と判明。 “恐ろしい手”という恐ろしい名を与えられた恐竜は、実は 木の葉や魚を食べる大人しい恐竜だったのだ。 全長30メートル超の超大型恐竜という推測を裏切り、その3分の1しかない普通の(?)大型恐竜といっても、全長10メートル。 ナターシャの10倍以上の大きさがある。 そんな恐竜が ナターシャのお気に入りになったのは、何といっても、デイノケイルスが もふもふ恐竜だったからである。 全長10メートルのデイノケイルスは、全身を薄桃色の羽毛で覆われた もふもふの羽毛恐竜だったのだ。 全長10メートルのデイノケイルスの雌が20個前後の卵を産み、その卵が孵って、よちよち歩きのひよこたちが お母さん恐竜のあとをついていく。 10メートルの巨大ママのあとを、4、50センチの雛鳥たちが よちよち ぴょこぴょこ。 そんなデイノケイルスの家族。 もふもふは強い。 そして、ぴょこぴょこも強い。 ナターシャは、すっかりデイノケイルスの虜だった。 デイノケイルスが主役のドラマ仕立てのCG動画を繰り返し観て、瞳を輝かせ、『ナターシャを恐竜博に連れてって!』と、毎日 パパにねだっている。 同じような子供が日本中にいるのだろう。 夏休み中ということもあって、件の恐竜博は 大人気の大盛況。 連日1キロを超える2時間待ちの大行列ができているらしい。 それでも見たいと言い、嫌な顔一つ見せずに大行列の最後尾に並ぶというのだから、子供という生き物は どれだけ恐竜が好きなのか。 恐竜に憧れたことなどなかった氷河には、それは 全く理解できない事態だった。 『本物のニコちゃん(という名のデイノケイルスが主役のCG動画シリーズが、ナターシャのお気に入りなのだ)に会いたい!』 と訴えるナターシャを、 『学校の夏休みが終われば、小中学生が恐竜博に来なくなって、長い待ち行列がなくなるから、9月まで待ってくれ』 と、氷河は懸命に なだめてきた。 瞬も、 『ナターシャちゃん。屋外で2時間待ちなんて、熱中症になって倒れたいと言っているようなものだよ。会場に入る頃には 具合いが悪くなって、立ってもいられないよ。8月が過ぎて、涼しくなるのを待とうね』 と、全力の援護射撃を続けてくれた。 その8月が いよいよ終わりかけているのだ。 本音を言えば、氷河がナターシャを恐竜博に連れていきたくないのは、炎天下での長い待ち行列もさることながら、活発に可愛らしく剽軽に動くCG動画の恐竜とは違う、本物の化石や骨格標本を見たら、ナターシャが怖い思いをすることになるのではないかと、その事態を案じているからだった。 大好きだったものを、好きでいられなくなることほど切ないことはない。 そうならないために――ナターシャに恐竜博のことを忘れてもらうために――氷河は、もふもふ恐竜の新しいCG動画が公開されるたびに、それをナターシャに見せてやっていた。 もともと熱中症予防のために 猛暑日の日中の外出を避けたかったナターシャの保護者たちには、活発でオデカケ好きなナターシャが恐竜ドラマに夢中でいてくれる状況自体は、非常に都合がよかったのである。 |