最強の乙女座の黄金聖闘士の涙。
マーマの涙にびっくりしたナターシャは、ニコちゃん動画最終回の衝撃のみならず、恐竜博のことも(今日のところは)忘れてくれたようだった。
そういう意味で、瞬の涙は、瞬の戦闘力以上に強大な力を示してくれたといえるかもしれない。
ナターシャが このまま恐竜博のことを忘れてくれれば、本物の巨大で恐ろしいデイノケイルスの骨格標本を見たナターシャが、大好きなニコちゃんを怖がるようになる事態を回避できる。
それが氷河の望むところだった。

ところが、瞬の涙の影響は それだけでは済まなかった――ナターシャに驚愕と一時的な忘却を もたらすだけでは済まなかった――のである。
ナターシャが、
「マーマが心配だから、ナターシャ、今日の お昼寝はマーマのいるところでする」
と言って、リビングルームのソファでお昼寝作業に取り掛かってしまったのだ。
マーマの涙に驚き、緊張し、相当の気力体力を費やすことになったのか、寝心地がいいとは言えないリビングルームのソファで、ナターシャは 速やかに眠りの中に落ちていった。
小さな手が、瞬の左手の指を掴んでいる。

大人になって、泣き虫は卒業したはずだったのに。
どう考えても、どう見ても、この状態は、“ナターシャが瞬を守ろうとしている図”であって、“瞬がナターシャを守っている図”ではない。
へたに動くとナターシャを起こしてしまうので、逃げることもできない。
瞬は微かに きまり悪げな視線を氷河に投げ、視線だけで『ごめんなさい』と、彼に謝った。
それから、小さな吐息を漏らす。
ナターシャが間違いなく眠りの中に落ちていることを確かめてから、瞬は 囁くような声で 氷河に告げた。

「親が子供を残して死んでいくのは、それこそ順縁だし――逆縁に比べれば、どこの病院でも よくあることで、僕も幾度か その場に立ち会ったことがある。子供を残して死んでいく親の心について考えたこともあるよ。何度もある。……氷河のマーマの気持ちもね。子供の頃は、氷河のマーマは それほどに――自分の命よりも 氷河を愛していたんだろうと思ったし、僕が氷河のマーマだったら、同じようにしただろうと思ってもいた。でも、ここまで共感したことはなかった。以前の僕は人の親じゃなかったし、それに 何ていうか……」
「言葉のない恐竜のことだと、かえって、心に迫る?」

ニコちゃんの動画シリーズは、ファンタジーでも おとぎ話でもない。
発見された化石から想像できる、“こうだったのかもしれない”状況を動画にした、いうなれば、創作ドキュメンタリーである。
動画に登場するのは、恐竜のみ。
当然 恐竜たちは言葉を話さない。
ニコちゃんは、ただ吠え、ただ鳴き、何も言わずに、我が子を守るために戦い、何も言わずに死んでいった。

それは、言葉で飾らない愛の姿。
原初形態とでも言うべき、愛の原型。
だからこそ、観る者の心を動かす力を持つ――瞬は心を動かされたのだ。

氷河に図星を指されて、瞬は 軽く肩をすくめた。
氷河は鈍いのか、鋭いのか――もとい、鈍い時も鋭い時もある氷河の、鈍い時と鋭い時の落差が激しくて、瞬は時々 当惑する。

「人間は、真実を隠すために言葉を使うからな。だが、真実を伝える時にも、人は 言葉に頼らざるを得ない。言葉の力と無力、言葉への信頼と不信。その両方を知っているから、言葉なしで伝わるものは疑いようがなく、ストレートに人の心に迫るんだろう」
言葉の持つ力と持たない力――という事柄についての考察は、意外に、氷河の得意分野なのかもしれない。
氷河は日常生活において言葉を駆使するタイプの男ではないが、彼が饒舌でないことには、そうする理由と益があるのだ。

「氷河が無口にナターシャちゃんを抱きしめてあげるのって、嘘のない愛情を伝えようとすると、どうしても そうなるっていうことなのかな。そして、ナターシャちゃんは きっと、それをちゃんと感じ取っているね」
「俺は、俺が愛したいから愛しているだけで、愛を伝えようとか、自分の愛を理解してほしいとか、そういうことは考えていないんだ。だから、俺は自分勝手なんだろう」

『その通りだ』とも『そうではない』とも答えられなくて――瞬は、何も言わなかった。
相手の都合を考えずに愛するという点では、確かに氷河は自分勝手な男だが、愛し返されることを求めないという点で、氷河のそれは 無償の愛なのだ。
瞬の無言を どう解したのか、氷河は、ふいに 今更なことを――“今更なこと”としか言いようがないくらい 今更なことを――語り始めた。

「言い訳に聞こえるかもしれんが、おまえに初めてキスした時も、初めておまえを抱きしめた時も俺が何も言わなかったのは、言葉では 俺の本当の心を おまえに正確に伝えることはできないと思ったからだ」
「……」
今更すぎて、目眩いがする。
氷河が完全に真顔なので、瞬の目眩いは徐々に 羞恥に似た何かに変わっていった。
そのせいで、『そうだったんだ』と、素直に氷河の言葉を受け入れられなくなる。

「今 思いついた言い訳でしょう」
「いや、実際に そうだったんだ。そうだったことに、今 気付いた。だから、言葉にできた。俺は恐竜レベルに口下手だからな」
「だから 氷河は、目に物を言わせるんだ」
言い訳などしなくても わかっているし、氷河の瞳は いつも 言葉より はるかに雄弁だった。
瞬は時折、その雄弁さを『ずるい』と感じることさえあった。
氷河の瞳の訴えには 嘘がないから、逆らうことができないのだ。

視線で瞬に“ずるさ”を責められた氷河が、
「俺は単に、カッコいいセリフを思いつかないだけだ」
言葉を用いて、卑怯な言い逃れをする。
ここは 言葉で はっきり責めるしかないかと、瞬が思った時。
「パパはカッコいいことを言わなくても、カッコいいヨ!」
言葉でも瞳でも嘘をつかないナターシャが、突然、自分の信じるところを力強い口調で訴えてきた。
言葉と視線で戯れ合っていた氷河と瞬は、ナターシャの乱入に大慌てに慌ててしまったのである。






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