ポーリュシカ・ポーレ






  緑燃える草原を越えて、あなたのいる窓辺へと、僕は行きたい

俺は、ふと、『ポーリュシカ・ポーレ』の日本語の歌詞を思い出したんだ。
ここは まるで、あの歌の恋人たちが生きている世界のようだと。
生き生きと美しく、大地の生命力に満ちた緑。見渡す限り一面の緑。
爽やかな風が流れる広々とした草原。
空の色は 日本の秋の空の色の似ていて、地平線も緑。

ここは、遠くまで続く なだらかな丘に 四方を囲まれていて、丘の向こうは見えない。
見えるのは空だけだ。
南と北と東は、その丘の向こうにも、また別の丘がある。
西側の丘の向こうにだけ、小さな湖があって、湖の岸辺には、草原の緑より濃い緑色でできた針葉樹の森。
1年を通して凍ることのない澄んだ湖には、サクラマスやヒメマスが、それこそ手で 掬えるほど たくさん泳いでいて、俺たちの良質のタンパク源になっている。
ロシアの大地は広く、美しく、今は平和。
俺の家の周囲は、まさに あの歌の情景そのものだった。

   雲流れるロシアの大地に芽生えた二人の愛は、明日へと続いていく

俺の家は(家といっても、頑丈なのだけが取りえのログハウスだが)なだらかな緑の丘の麓にあって、周囲に風よけの樫の木が数十本立っている。
樫の木が守っているのは、俺たちの家と 家の周囲にある畑。
畑には、カブや大根、じゃが芋やキャベツ等の野菜が植えられていて、シーズンごとに 確かな実りをもたらしてくれていた。

近隣に家はない。
最も近い人家は、ここから南に5キロほど離れたところにあるコホーテク村。
ほとんど自給自足できるので、滅多に赴くことはないんだが、数ヶ月に一度、小麦粉や衣類や雑貨の補充のために、草滑り用のソリを引いて、俺はコホーテク村に出掛けていく。
俺が持っていくのは、ウサギやテンの毛皮、蜂蜜、マーマが作ったヴァレーニエやシベリア刺繍を施した帯やルバシカ。
もちろん物々交換だ。
金は使わない。電子決済なんて、異世界での話。
この世界は平和で のどか。
貨幣経済だの信用経済だの、そんな概念が入り込む隙はないんだ。

まさに、ポーリュシカ・ポーレの情景――。
とは言っても、それは あくまで 日本語のポーリュシカ・ポーレの歌詞の情景だ。
日本語の歌詞では、恋し合う二人の若者が再会を願う歌。
ロシア語の原詞は、草原を進軍する赤軍騎馬隊を村の娘たちが見送る光景を描いたもので、恋の歌なんかじゃない。
色気も素っ気もない、戦意高揚のための堅苦しい軍歌だ。
社会主義スターリン政権下のソ連邦では、そういう曲が歓迎されたんだろう。

だが、農奴が貴族に虐げられていた帝政期も 監視と密告の社会主義ソヴィエトの時代も、もはや 遠い昔。
今は 平和で、自由で、静かだ。
少なくとも、俺の目に映る世界は どこも。
俺の周囲でうるさいのは、俺たちのために一生懸命クローバーの花の蜜を集めてくれている蜜蜂たちくらいのもの。
こいつらは、実に勤勉だ。

南側の丘の中腹で、ナターシャがウサギと遊んでいる。
ウサギの毛の色はまだ茶色。
そろそろ、白い冬毛に生え変わるだろう。
ナターシャと仲のいいウサギは 掴まえないように注意しなければな。
シチューに入っている肉がウサギ肉と知ったら、ナターシャは ショックを受けて、最悪の場合、シチューを食べられなくなるかもしれない。
ああ、そして、そろそろカブの種を撒く時季だ。

蜜蜂の巣箱の蓋を閉めながら、俺が そんなことを考えていた時。
丸太でできた家の 丸太でできた扉が開き、白いサラファンに紺色のエプロンをつけたマーマが外に出てきた。
そして、右手を振って、俺とナターシャに呼び掛ける。
「氷河。お茶が入ったわよ! ナターシャちゃんもいらっしゃい。今日の お茶請けは、ナターシャちゃんの大好きな蜂蜜ケーキよ!」

「ハチミツケーキ! ヤッター!」
歓声を上げて、ナターシャが丘を駆け下り始める。
ナターシャに遊んでもらっていたウサギは。両手を前に垂らした格好で、『またね』も言わずに駆け出したナターシャを ぽかんと見詰めるばかり。
ウサギには少し気の毒だが、マーマの蜂蜜ケーキは ナターシャにとって、それほど魅惑的なものだということだ。
気持ちのいい風。
髪が風になびいて―― ナターシャは、そんなことにも大喜びだ。

だが、この気持ちのいい風が木枯らしになるのも まもなくだろう。
シベリアはすぐ冬になる。シベリアの秋は短い。
そろそろ冬の準備に取り掛かろう。
まずは燃料の確保。
雪が降り出す前に 屋敷林の樫の木の 横に伸びすぎた枝を落として 乾燥させておかなければ。
湿気の多い薪は燃えが悪くて、煙も多く出るからな。

「そろそろ冬用の薪を用意し始めた方がいいだろうな」
俺は、取り掛かれば 仕事は早い方だ。
慣れている瞬、体力もある。
だが、シベリアの大地で つつがなく日々を過ごすには、人間の勤勉に加えて自然の協力が不可欠。
俺がどんなに蜜蜂たちの世話をしても 花がたくさん咲かなければ蜂蜜は集まらず、俺が早くから薪作りに取り掛かっても、晴天が続いてくれないことには、いい薪は作れない。
この美しく過酷な自然の中で、平和の恩恵を享受しつつ、日々の暮らしを支障なく続けるには、季節を半月 先取りした事前準備が必要なんだ。
そんなことは俺より よく知っているはずなのに、俺の冬支度宣言へのマーマの答えは、
「冬支度に取り掛かるには、まだ早いわ」
だった。

「あまり悠長に構えてしいられないだろう。冬は駆け足でやってくる」
「ここに冬は来ないわ。冬支度より――その分、ナターシャちゃんと たくさん遊んであげましょう」
「マーマ、何を言っているんだ……」
冬支度は ナターシャのためにすることでもある。
ナターシャとマーマと俺の命と暮らしに関わること。
それを後回しにしろとは、マーマらしからぬ言葉だ。
なぜ そんなことを言うんだと、俺はマーマを問い質そうとしたんだが。

「明日、山ブドウと松の実の砂糖煮を作ろうと思ってるの。ナターシャちゃん、お手伝いしてくれるかしら?」
何のことはない。
マーマには、薪作りより先に始めたい冬支度の作業があっただけだったんだ。
冬場の食糧の確保。
山ブドウや松の実は、雪が降り出してから集めることは ほぼ不可能だから、確かに、それは薪作りより先にしておかなければならない仕事だ。

「ナターシャ、お手伝いスルー!」
ナターシャが、頬張っていた蜂蜜ケーキを ごくりと喉の奥に押しやって、お手伝い宣言。
こうなると、俺も、マーマの言うことをきく いい子にならなければならない。

「じゃあ、俺は、今日 これから湖の森に行って、山ブドウと松の実を集めてこよう」
「ナターシャも行くー!」
ナターシャは、本当に働き者だ。
冬支度より、ナターシャと遊んでやることの方を優先させたいと考えるマーマの気持ちは よくわかる。
冬を無事に過ごせても、ナターシャが笑っていなかったら、何にもならない。
そうだな。
それでいいのかもしれない。
冬が来ようが、世界が雪に閉ざされようが、どうせ ナターシャとマーマは、何があっても 俺が守り抜くんだから。

マーマ特製の蜂蜜ケーキを食べ終えて満足したナターシャは、台所に飛んでいき、白樺の皮で作ったバスケットを取ってきた。
そのバスケットに、湖の森の収穫物を入れるつもりなんだろう。
ナターシャは 今すぐ、山ブドウと松の実を取りに行く気 満々。
『昼寝をしてからの方がいいのでは』と言っても 聞きそうにないので、早々に 二人で出掛けることにした。
西の丘の向こうにある湖。その湖の岸の西側に広がる緑の森を目指して。






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