丘の傾斜が なだらかだということは、丘の麓から頂まで 距離があるということだ。
丘の中腹まで来て、一度 後ろを振り返った。
家の扉の前で、マーマが手を振っている。
マーマは、白樺の皮で作ったバスケットの中に、蜂蜜ケーキの残りとレモン水を入れてくれた。
ナターシャは、ピクニックのついでに、パパとおばあちゃんのお手伝いをするような気持ちでいるに違いない。
事実も その通りで、ナターシャが働き者なのは、彼女の仕事が いつもお楽しみを伴っているからだった。
マーマに大きく幾度も 手を振り返すと、ナターシャは再び張り切って丘を登り始めた。
登りながら、俺に尋ねてくる。

「ねえ、パパ。ナターシャマーマは、パパのマーマなんでショ? ナターシャのバーブシカ、ナターシャの おばあちゃんなんだヨネ?」
「ああ、そうだ。パパのマーマは ナターシャのおばあちゃんだ」
「じゃあ、ナターシャのマーマはどこにいるノ?」
「どこって……」
ナターシャは、なぜ そんなことを訊くのかと、俺は 混乱したんだ。
それが あまりに思いがけない問い掛けだったので、俺は その場で足を止め、我知らず 空を仰ぎ見た。

雲一つなく晴れ渡った空。
美しい緑の草原。
この世界は平和で、穏やかで、幸せなことだけでできている。
軍歌や戦いなどという おぞましいものはない。
ここは 悲しみのない国。
欠けたもののない世界だ。
当然、ナターシャのマーマもいる。

ナターシャには、俺が最高のマーマを ちゃんと用意した。
誰よりも強く、優しく、美しく、清らかな、間違いなく この地上世界で最高最上等のマーマを。
俺の大切な娘に、最高のマーマ。
当然だろう。
ナターシャが俺の許に来た時、それは 最初に考えたさ。
綺麗で優しいマーマがいないと、子供は幸せになれない。
最高に綺麗で優しいマーマを、俺の娘に。もちろん、最初に考えた。
俺の娘を、マーマのいない娘にすることなどできるわけがないから。

だが、そう言えば、俺は今朝から瞬の姿を一度も見ていない。
なぜだ?
ナターシャのマーマはどこにいる?

ふいに歩くのをやめた俺を訝って、ナターシャは 俺の顔を見上げてきた。
俺の左手を 小さな手で握りしめ、瞳を不安の色に染めて。
ナターシャの背後には、緑の丘。平和な空。
ここには戦いはない。悲しみもない。
ここは、俺の欲しいものだけがある世界。
ここは、俺の欲しいものが すべてある世界のはず。
なのに なぜ、瞬がいないんだ―― !?






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