ポーリュシカ・ポーレ それは愛の言葉。永遠に消えない 二人だけの誓い

「再会を願う恋人たちが 別離を強いられた原因が出征なのだとしても、それなら なおさら、だからこそ一層、戦争の終結と 故郷への帰還を願う歌だと思うでしょう。『ポーリュシカ・ポーレ』が 本当は軍歌なんだって、氷河に教えてもらった時は、すごくショックを受けたな」
俺が その無粋で無残な事実を 最初に瞬に教えたのは いつのことだったろう。
俺たちが まだ青銅聖闘士だった頃だろうか。
楽しそうに その歌を口ずさんでいた瞬に、俺は ちょっとした豆知識を披露するつもりで、ポーリュシカ・ポーレの正体を教えてやったんだ。
瞬は その歌を歌うのをやめ、項垂れてしまった。

その時のことを、幾らかでも冷静に話せるようになったのは、それから数年後。俺たちが もう少し 大人になってから。
クリスマス間近の冬の日だったように思う。
「『ポーリュシカ・ポーレ』だけでも かなりのショックだったのに、今度は『トロイカ』? 『トロイカ』はね。日本では、黒い瞳の恋人が待つ家で、クリスマスのお祝いをするためにトロイカを駆る若者の歌なんだよ。それが、本当は、お金に釣られて金持ちの家に嫁ぐ恋人への恨み節だなんて……。ロシアの歌って、そういうのばかりなの?」

俺は、自分がまた、言わずにいればいいことを瞬に知らせてしまったことに気付いて、胸の中で舌打ちをしたんだ。
クリスマスシーズンの街の通り。
軽快なリズムの『トロイカ』が四方から流れてくることに、どうしようもない違和感を覚えたせいだったとはいえ。

俺は、その歌を作った人間じゃないから、真実はわからない。
『トロイカ』は古くからある民謡で、もとから失恋男の嘆きの歌だっただろうが、『ポーリュシカ・ポーレ』の方は20世紀にソヴィエト政権下で作られた曲だ。
本当は恋の歌にしたかったのに、社会情勢が許さなくて軍歌を装っただけということもあり得る。
ソヴィエト時代の芸術は、音楽も絵画も小説も舞踊も、国の方針にのっとった振りをして検閲を逃れようとする、芸術家たちと当局の騙し合いの歴史だったそうだからな。
ショスタコーヴッチも、ルドルフ・ヌレエフも、バリシニコフも、ソルジェニーツィンも、芸術と体制の間で苦悩し、苦労したらしい。
本当のことは誰にもわからないさ――。

確か、そんな話をした。
そんな話をしたことは憶えているが、それは どこで? いつのことだ?
俺が瞬に会ったのは日本だ。
日本に渡るために乗った船が 氷の海に沈み、マーマが死んで、俺が天涯孤独になったからだ。
だが、そんなことがあるはずがない。
マーマが死んだなんてことが。

ナターシャが左手に持っているバスケットに入っている蜂蜜ケーキを焼いたのは誰だというんだ。
死人がケーキを焼いたとでもいうのか。
馬鹿馬鹿しい。
本当に馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しいことは考えるな。
考えるな、氷河。
たとえ考えずにいることが どんなに難しいことでも。

俺が いつまでも その場に突っ立って動かないから(?)、
「ワーイ!」
ケーキが入ったバスケットを草の上に置いて、ナターシャは急に 緑の丘を勢いよく駆け上がり始めた。

何かと思ったら、ナターシャが駆けだした先に、ゆっくりと草原を歩むハルシュカラプトルの姿が二つあった。
おそらく食事のために湖に向かうところなんだろう。
ナターシャが好きな、ナターシャより少し背の低い、白鳥そっくりの恐竜だ。
7500万年前のモンゴルで栄えた。
7500万年前のモンゴルで――。
ここは、7500万年前のモンゴルなのか? まさか。

おかしいと――この世界はおかしいと、7500万年前に生きていた恐竜の姿を見るまで気付かない俺こそが おかしいだろう。
俺が、ナターシャに『ナターシャ』という名前を与えたのは、俺のマーマが既に この世にいなかったからだ。
俺のマーマと俺の娘が、同じ時間、同じ世界に存在するはずがないんだ。
まして、7500万年前の恐竜なんて――。

この世界は、あり得ない世界だ。
この世界は 偽物の世界。狂った世界。
この世界はまやかしだ。

俺のマーマと ナターシャはもういない。
俺のマーマは 俺の命を救うために北の海に沈んでいった。
俺の娘は、存在自体を なかったことにされた。
俺の世界には もう、マーマもナターシャもいない。
俺の世界には、俺の欲しいものはない。
俺の世界には、悲しみだけがある。

では、この世界は何だ。
俺が作った まやかしの楽園か?
いや、それは あり得ない。
俺が、俺の世界から瞬を消してしまうはずがない。
では、誰が、何のために。

では、誰が、何のために。
そんなことは考えるまでもないこと――“瞬が”、“俺のために”、だ。
おそらく瞬が――この世界は、瞬が俺のために作ったんだ。
きっと俺が、ナターシャを失って、自分自身をも失いかけていたから。
おそらく、そうだ。
俺は ずっと長いこと、ナターシャが消えたことに気付いてすらいなかったのに。






【next】