複数の次元。複数の世界――複数の異世界。 生の世界と死の世界。 過去と現在と未来。 時間と次元と――世界を構成する ありとあらゆることが交錯し、混乱し、もはや すべてが消滅することでしか収拾がつかなくなった状況を正すために発動した力は、世界の時間を 混乱が始まる以前の ある時に戻してしまった。 そうして、再び 流れ出した時間。 再び 動き始めた世界。 それは 完全に美しいわけではなく、完全に平和なわけでもなく、すべてが整然としているわけでもなかったが、次元と時間の錯綜・混乱だけはない世界だった。 そして、その時間の中、その世界の中に、俺のナターシャはいなかった。 それが正しい世界のあり方だから? ナターシャのいる世界は間違った世界だったから? は! 何が間違いで、何が正しいことなのか。 それが誰にわかるというんだ。 誰がそれを決めるんだ。 その間違った世界で、俺は幸せだったのに。 それとも、そもそも 俺が幸せでいることが間違いだとでもいうのか? 過去に戻って流れ始めた時間の中で、俺は仲間たちと共に戦い、黄金聖闘士になり、聖闘士として、人間として、充実した人生を生きていた。ナターシャの不在にも気付かずに。 ナターシャの不在に気付いたのは、俺自身の通勤には不便なのに “瞬の家に近い”という素晴らしい条件のマンションで暮らしていた俺が ちょっとした間違いで 光が丘公園の ちびっこ広場に迷い込んだ時。 無軌道で騒がしい子供という人種が嫌いだった俺は、すぐにそこから逃げ出そうとした。 そうしたら、誰かが俺を呼んだんだ。 「パパ!」 と。 確かに呼んだ。 懐かしい声。 明るく元気で、俺を信じ、俺の愛を信じ、そして誰より俺を愛している少女の声。 ナターシャが俺を呼んだ。 この正しい世界には存在しないナターシャが、確かに。 俺にまで忘れられて、ナターシャは悲しかったんだろうか。 いや、多分 違う。 ナターシャの声は、悲しんでも恨んでもいなかった。 寂しがってさえいなかった。 ナターシャはただ、俺に思い出してほしかったんだ。 パパを大好きな娘がいたことを。 今も いることを。 今は いないことを。 俺は、そして、気付いた。 俺は、そして、ナターシャを思い出した。 俺は、そして、ナターシャが死んだのですらないことに憤ったんだ。 死ぬことができなかったナターシャは、冥界にすらいない。 存在しなかったことにされたんだから、当然だ。 存在しなかった者は 生き返らせることもできない。 冥界に行っても、死んだナターシャに会うことすら叶わない。 “死”なら、誰もが必ず辿る運命と受け入れ、諦めることもできる。 だが、俺のナターシャは 死ぬことすら許されなかった。 俺のナターシャは、誰よりも一生懸命に生きていたのに。 俺のナターシャは、誰よりも俺を幸せにしてくれたのに。 こんな理不尽があっていいのか。 人間や世界を滅ぼそうとする邪悪の徒たちは、それが当たり前のことのように生きて存在しているというのに。 こんな理不尽な世界にいたくにいと、俺は思った。 確かに思った。 ナターシャのいる世界にいたいと思った。 マーマのいる世界にいたいとも思った。 俺を幸福にするものだけで できている世界に生きていられたら、どんなにいいだろうと、俺は確かに考えた。 だが。 「氷河、そんなに悲しいの? そんなに寂しいの?」 瞬が俺に訊いてきて――瞬はきっと、おれが気付くより早く、ナターシャの不在に気付いていたんだろう。 瞬は 俺より強大な小宇宙の持ち主だし、俺より注意深い。 それに、これは俺の うぬぼれかもしれないが、瞬は 俺自身より俺の幸せを願ってくれているから。 そのために、もしかしたら、俺よりナターシャを必要とし、ナターシャを愛していたから。 俺は、瞬に、 「悲しい」 と答え、 「寂しい」 と答えた。正直に。 訊いてきたのが瞬だったから――俺は甘えたんだ。 訊いてきたのが瞬以外の誰かだったなら、俺は何も答えなかったと思う。嘘をつかないために。 「氷河はどうしたい? 氷河の望みは何? 氷河の幸せは何?」 俺の望みなんて、ささやかなものだ。 その ささやかな望みが叶わないんだ。 「マーマがいて、ナターシャがいて、おまえがいる世界」 ただ それだけだ。 そう答えたんだ、俺は。 瞬は、俺の 気が狂いそうなほどの悲しみと寂しさを消し去るために、この世界を作ってくれたんだろう。 俺の欲しいものだけでできている世界。 俺を幸福にするものだけでできている世界。 日本語のポーリュシカ・ポーレの歌のように、本当の姿を“愛”と“平和”という幻想で覆い隠した、美しく幸福な世界だ。 だが、まがい物の世界だから、ここに瞬はいない。 瞬は、強く美しく優しく厳しい。 偽りの幸福の中で微笑んでいることに、瞬は耐えられないから。 |