復活のアクエリアス






『ノックの音がした』
必ず、その一文で始まる有名なショートショート集がある。
ノックされたドアの向こうから 思いがけない人物(多くは 未知の人物)が室内に入ってきて、平和な日常を掻き乱す騒動が起きる。
そんな物語ばかりを集めた一冊である。
その掌編集が上梓された頃は、未知・既知を問わず、訪問客は(泥棒か、よほどの礼儀知らずでない限り)必ずドアをノックして、“中”の人間に自らの訪問を知らせていた。
しかし、今は違う。

今は、『電子音がした』。
しかも、その電子音には種類があり、各々の音によって、訪問客がマンションのエントランスにいて、エントランスゲートを開けてもらうことを求めているのか、訪問客ではなくマンションの管理人が 対応を問い合わせてきたのか、あるいは 訪問客が既に各階の部屋のドアの前まで来ているのかどうかが わかるようになっている。
その電子音は、訪問者が既に この部屋のドアの前に来ていることを示すものだった。

「お客様だー!」
“お出掛け”と同じくらい“お客様”が大好きなナターシャは、手にしていたクレヨンを お絵描き帳の上に転がして、電子音に弾かれたように 掛けていた椅子から飛び降りた。
いずれナターシャの部屋にも机を入れようとは思っているのだが、今は まだナターシャの“作業”机はリビングルームに置いてある。
ナターシャは とても いい子だが、元気すぎる子でもあるので、眠っている時以外は まだ 大人が目を離すわけにはいかなかったのだ。

それは さておき、瞬は、ナターシャの声に――より正確に言うなら、ナターシャに大きな声を上げさせた電子音に――驚いた。
今日は、訪問客の予定はない。
マンションの管理人から、訪問客が来ているという連絡もないし、エントランスのロックも開けていない。
星矢がエントランスゲートを通らず、アテナの聖闘士の力を使って、勝手に マンションに入り込み、申し訳程度にドアから入ろうとすることは時々あったが、そういう時は事前に『何か、おやつあるか?』と連絡があるのが常だった。
だが、今日は、その事前連絡を受けていない。
瞬より早くドアのモニター画面の前に駆け寄ったナターシャは、そこに映る人の姿を見て、更に音量の増した歓声をあげた。

「おじいちゃんだー!」
「おじいちゃ……カミュ…… !? 」
知らない人ではないので、ナターシャは、自身の判断で ドアのロックを解除するボタンを押した。
そして、これが歓迎の声でなかったら 何が歓迎の声かというほど弾んだ声で、カミュを歓迎する。
「おじいちゃーん!」
「おお、ナターシャ。元気だな」
ナターシャは、自分を抱っこしてくれる人が好きで、かつ、抱っこしてくれる人と してくれない人を 本能で選別できる(ようだった)。
ナターシャの本能は、カミュを“喜んで ナターシャを抱っこしてくれる人”と判断したらしい。
ナターシャが両手をカミュの方に伸ばすと、カミュは嬉しそうに ナターシャの身体を抱き上げた。

「カミュ……先生……」
自分より年下の先達を、まさか『おじいちゃん』と呼ぶわけにもいかないので、とりあえず そう呼んでみる。
「やあ、瞬」
カミュは、『アンドロメダ』でも『バルゴ』でもない――役職名(?)ではなく個人名で 瞬を呼び、瞬に笑いかけてきた。
もっとも、その微笑は、瞬への好意の現われというより、ナターシャを抱っこしている喜びが生んだものだったろうが。

「せっかくナターシャに会えたのに、一緒に遊ぶことすらできずに、黄泉に戻ることになってしまったのが無念でな」
無念だから どうしたというのか。
瞬は、その疑問文を声にしてカミュに投げかけることができなかった。
「カミュ……どうやって……」
――と、カミュに問うたのは、玄関先での騒ぎに気付き、少しばかり遅れて その場にやってきたカミュの教え子だった。

さすがに、『お久しぶりです』や『こんにちは』は省略。
『どうやって』に続く言葉は、省略したのではなく、絶句して 出てこなかっただけ。
絶句して出てこなかった言葉は、『(どうやって)生者の世界に戻ってきたのか』。
氷河の声なき声は 聞こえていたはずなのに、カミュは、氷河に問われたことには 何も答えなかった――いっそ気持ちがいいほど華麗に無視した。

「おお、氷河。おまえも瞬も、アテナの聖闘士と 堅気の社会人の二足の草鞋を履いて育児をするのは大変だろうと思ってな。現役リタイア組の私が、ナターシャの世話をしにきてやったぞ」
「カミュ……」
「おまえたちも、たまには二人きりで過ごしたいこともあるだろうし」
「何を言っているんだ」
「ナターシャのことは 私に任せて、二人で ゆっくり温泉旅行にでも出掛けてみてはどうだ?」
カミュがリタイアしたのは アテナの聖闘士として戦うことと、堅気の社会人として働くことだけではない。
それに加えて、彼は、生者として生きることもリタイアしているのだ。
つまりは死人に、“ゆっくり 温泉旅行”を奨励されても困るのである。

が、今のカミュは、自分が何者であるのかを、正しく(常識的に)自覚できていないようだった。
「おじいちゃん、眉毛、カッコいー!」
そのセリフを言ったのがナターシャ以外の誰かだったなら、その“誰か”は即座に フリージングコフィンの住人になっていただろう。
言ったのがナターシャだというだけで、それは素晴らしい誉め言葉になるらしく、カミュはナターシャに眉を触られて、溶けかけたアイスクリームのように 相好を崩していた。
そんな孫とおじいちゃんに背を向け、氷河と瞬が声を潜めて現状確認を始める。

「どういうことだ。おまえがハーデスに掛け合ったのか?」
「氷河が望まなきゃ、カミュだって、生き返ってきたりはしないでしょう」
「……」
氷河が黙り込んだのは、『俺は、カミュの復活など望んでいない』と力説断言するわけにはいかなかったから。
“望んでいなかった”わけではなく――彼は ただ、そんなことを“考えてもいなかった”だけだったのだが。
普通の一般的で常識的な堅気の人間が そんなことを考えないように。

いずれにしても、カミュは、誰かに復活を求められたわけではなく、誰に許可を求めたわけでもなく、自分が この世界に来たいから、自分の来たい世界に来ただけのようだった。
おそらく冥府の王の許可も得ていない。
彼は、ただただ孫可愛さで、ただただ『孫に会いたい』の一心で、勝手に生き返ってきてしまったのだ。

自分が説明しなかった(あえて説明を避けた)事情を、氷河と瞬が理解したと察したらしいカミュは、大人向けの真面目な顔を作るのも面倒くさそうに、ナターシャに向けていた全開の笑顔を、そのまま氷河と瞬の方に向けてきた。

「今すぐ 冥界へ帰れなどと冷たいことは言うまいな? 冥界の氷地獄は、私にとっては、それは温泉につかっているようなものだが、私は可愛い孫との時間を過ごせなかったことが心残りで、ナターシャへの愛ゆえに、この世に蘇ってきたのだ。ここで問答無用で冥界に追い返されてしまったら、私は無念のあまり 成仏できず、おまえたちの前に 化けて出てくることになるだろう」
それは脅しのつもりなのだろうか。
カミュは どうやら、自分が既に生者の前に化けて出てきているという自覚がないようだった。

「アテナはご存じなんですか」
瞬が、一縷の希望にすがって、カミュの元上司、元主君の存在を ほのめかす。
彼女が彼女の元部下の非常識な言動を知ったら、どう思うか。
瞬としては、カミュに そのあたりのことに考えを及ばせてもらいたかったのだが、今のカミュの主君は もはやアテナではなく、ナターシャになってしまっているようだった。

「報告してはいないが、ご存じだろう。私は、誰にも迷惑はかけないつもりだ。おまえたちも、私への気遣いは無用だ。私は 死人だから、そもそも新陳代謝が行なわれていない。衣食住の心配もいらん。眠る必要もないのだが、夜は公園でも眠れるし――」
「公園で野宿なんて、やめてください!」
公園で ホームレスごっこなどして、東京都と練馬区に、就労や住居の確保の支援などされてしまっては たまらない。
仮にもアテナの聖闘士――それも黄金聖闘士だった者が、ホームレス更生施設に収容されでもしたら、目も当てられないことになる。

「そうか。ここに泊めてくれるか!」
瞬の悲鳴を、カミュは(どう考えても、わざと)そう曲解したようだった。
「さすがは アテナの聖闘士にあるまじき優しい心と 地上で最も清らかな魂の持ち主。その上、歴代聖闘士最高の年収を誇る乙女座バルゴの瞬。心も広いが、懐も深い。私は、ナターシャの部屋の床に直寝で結構だ。野戦で野宿も慣れているし、そもそも私は死人だから 氷の上でも眠れる」
「……」

彼は、自分が何を言っているのか、わかっているのだろうか。
瞬は、自分が何を言われているのか、ほとんど わかっていなかった。






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