Pain pain go away






晩秋から初冬にかけた時期に見られる暖かく穏やかな晴天。
辞書に載っている説明文通りの小春日和だった。
英語では、インディアン・サマー。諸説あるが、インディアンたちが冬に備えて収穫物を貯蔵する作業を行なう日と言われている。
ドイツ語では、老婦人の夏。ロシア人語でも、婦人の夏。
世界中の人々が特別に名前を与えて、他の日と区別する、優しく穏やかな一日。
その日は、そんなふうに とても平凡で、とても特別な日だった。

晴れ渡った空。
吹いていると言っていいのかどうかの判断に迷うほど微かな風。
陽光は やわらかく優しく、気温は高くも低くもない――暑くも寒くもない。
空調いらずの、ぽかぽかと気持ちのいい陽気。
ベランダに置いたテーブルと籐椅子を、そろそろ片付けようと思っていたのに、こんな天気の日があるから片付けることができない。
クッションを積んだ籐の揺り椅子では、ナターシャが すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。

午前中は 公園で 思い切り駆け回り、ランチは好物のオムライス。
そこに こんなに気持ちのいい ぽかぽか陽気ときては、『お昼寝しようね』の一言がなくても、眠りの中に引き込まれてしまうというもの。
ナターシャの無防備な寝顔は 常に、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士である瞬に、これ以上ないほどの喜びと達成感を運んできてくれるものだった。

ナターシャの部屋着の ゆるやかな袖口から、彼女の手と腕を繋ぐ縫合痕が 覗いている。
夏は外出時、手足に残る縫合痕を隠すために長袖を着せていた。
『日に焼けると、ナターシャちゃんのデリケートな肌は火傷みたいになっちゃうんだよ』
そう言って、我慢して長袖の服を着てもらった。
あの狂気のような猛暑の日々が終わり、長袖の服が不自然でなくなる季節がやってきた。
それは本当に有難いことなのだが。

『望むように動けない、生きられない。私の苦しみが、あなたにわかるっていうの! わからないでしょ! わかるはずない!』

もう一脚の籐椅子に腰を下ろし、何の憂いもなく幸せそうなナターシャの寝顔を見詰め、その手首の傷を見やり、そこだけ色の違う傷痕を、そっと指で なぞる。
この傷が、いつかナターシャにも あの言葉を叫ばせることになるのだろうか。
瞬は、そうなることが怖かった。
この傷痕を消す方法があるのなら――たとえば、外科手術で、レーザー治療で、小宇宙で、いっそ蛇遣座のオデッセウスを この時代に連れてきて――どんなことでもするのに。
瞬が胸中で そう呟いた時。
いつのまにかベランダに出てきていた氷河が、瞬の肩に手を置いた。
瞬が何を考えているのかを察したのだろう。
氷河の腕に寄りかかるように、瞬は首を右に傾けた。

「ナターシャちゃんは、本当に可愛い。素直で、明るくて、優しくて、元気で、今はとても幸せな女の子だ。今、こうして 寝顔すら笑っているように見えるほど幸せな女の子になるまでに――氷河に出会うまで―― ナターシャちゃんは、幸せや愛に全く無縁な日々を過ごしてきたんだから、両親をはじめとする大人たちから最も愛情を注がれるべき時期に、それを与えられることがなかったんだから、その代償に、ナターシャちゃんは この先ずっと 生きている限り幸せでいていいと思う。でも、いつか――いつか、この傷のせいで 苦しんだり泣いたりする時がくるんじゃないかと思うと……」
それが我がことのように――否、我がことでないから、余計につらいのだ。
瞬は唇を噛みしめた。

なぜ急にそんなことを言い出したのかと、氷河は 瞬の様子を訝ったようだった。
その時の覚悟は、互いに既にできていると思っていたから。
「俺たちが守ってやればいい」
「うん。もちろん、そのつもりだよ。ナターシャちゃんを傷付ける人が、たとえ 特別な力を持たない一般人だったとしても、僕は、ナターシャちゃんの心を守るために戦うと思う」
「どうしたんだ」
「ん……」
あまりに短く端的に問われるので、かえって説明しないわけにはいかない気持ちになる。
氷河の言葉の少なさは、どこか罠に似たところがある。
と、瞬は、心中で苦笑した。

「僕の患者で、女の子で、本当なら高校生なんだけど、病気で学校に行けずにいる子がいるの。病名は言えないけど、常に 医師と大掛かりな医療器具が側になければ安心できない病気」
現時点で、根治の方法はない。
具合いが悪くなった時の対処方法があるだけ。
瞬も一日一回の検診以外にできることはなく、外科専門ではなく 総合診療医である瞬が 彼女の担当に指名されたのも、彼女を診ることのできる医師の中で最も柔和な外見が好まれたのだろうと、これは総合診療部長の推察。
『だから、優しく対処してくれ』というのが、部長からの指示だった。

「幸い、裕福な家の一人娘で、一般病棟とは区別された特別室で、金に糸目をつけない最高の治療と看護を受けている。勉強もネットで、高いレベルの講義を受講していて、知識や教養のレベルは同年代の高校生たちより上だと思う。もともと、頭のいい子だし、悪い誘惑もないからね。よくない遊び、よくない友人に接することもなく、おしゃれや恋に時間を取られることもなく――」
その分、対人関係の構築や維持に関する技術は、彼女が 発症し入院した小学生の頃のまま。
むしろ、かぇって 我儘になったかもしれない。そんな少女。

「歩けないのか」
「身体の筋肉があちこち――下肢や心臓が」
「心臓もか」
氷河は低く呻くことになった。
下肢だけなら 車椅子等での移動も可能だし、随意筋の運動に関わる脳の治療で、完治とまではいかなくても改善が期待できるが、心臓にも支障があるとなると、下肢の治療すら迂闊にはできないだろう。
まさか 下肢のために心臓を犠牲にするわけにはいかない。

「気の毒な少女ではあるんだ。病気は もちろん、彼女のせいじゃないし、彼女の闘病中に 実のお母さんが亡くなってしまって……」
氷河の瞼に影が射す。
その一事で、氷河は彼女に深い同情を覚えたらしい。
確かに、彼女は同情すべき少女なのだと、瞬も そう思っていた。






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