「もともとは健康な女の子だったんだ。10歳になったばかりの時に発症して、それ以降、ずっと入院している。健康だった時の記憶があるから、なおさら 彼女は苛立ちが募るんだろうと思う。お父さんは多忙な人で、それでも、彼の地位や立場を考えたら、娘さんのために かなりの時間を割いて、気遣ってもいる。でも、普段の身の回りの世話や看病は ほとんど お母さんがしてて――」
「お母さん? 母親は亡くなったんじゃなかったのか」
氷河に問われて、瞬は、過去と現在だけを知らせて経緯を省いた自分の説明の不首尾に 肩をすくめた。

「血は繋がってないの。お父さんの再婚相手。彼女にとっては継母。5年前に奥さんが亡くなって、その2年後に、彼女のお父さんが再婚したんだ。それも半分は、娘のための再婚みたいなものだったんだけど……」
「生さぬ仲というわけか。娘のための再婚というのは?」

「彼女の今のお母さん――つまり、お父さんの再婚相手が、うちの病院の看護主任だった女性なんだよ。その娘さんの担当だった時期もある。お見舞いにきた お父さんと知り合って、再婚。主任は、勤めをやめて、家庭に入った。というより、患者みんなの看護主任から、その娘さん専任の看護師になった。そういうこと」
「それはまた」
「一般病棟には滅多に来ないから、元同僚や部下と顔を合わせることは、あまり ないんだけど……。人望のある人だったんだよ。今も、血の繋がっていない娘さんに献身的に尽くしている。でも、娘さんは、継母が実母から父を奪ったと信じてるんだ。それで、二人の仲がうまくいってなくて――」

「前妻と離婚したわけではなく、実母が死んでから2年後に再婚しているんだろう? 不倫でも、略奪婚でもない。多少の打算があったとしても――妻は夫の地位財産を欲し、夫は娘の有能な看護師を手に入れたと考えれば、相見互い、どっちもどっち。よく言えば、ウィンウィン――」
「二人は大人だから、そういう思いが全くなかったとまでは言わないけど、僕は、あの二人の間には、愛情も好意も尊敬もあったと思う。今も もちろん ある。いい ご夫婦だよ。ただ、再婚に至った時期と経緯がね……」
その時系列が問題なのだ。
病人である少女には 大問題であるらしい。

「娘さんが発症して入院したのが7年前で、その時の看護師――主任が今の母親。つまり、主任は7年前に、あの娘さんと彼女の両親と出会ってたの。看病疲れで心身を病んだ実の母親が 入院したのが6年前。それから 半年経たぬまに前の奥さんは亡くなって、その2年後に、彼女のお父さんは彼女の看護師だった人と再婚。前の奥さんが生きているうちから 二人は付き合っていたんじゃないかと、娘さんが疑惑を抱くのも、下種の勘繰りとは言い切れないところはあるんだ。お付き合いしていたのでなくとも、好意は抱き合っていただろうと、僕も思う。自分のせいで実母が亡くなったという思いも相まって、娘は二度目の母を受け入れられない……」

以前は そんなことはなかったのだが、今では 彼女は、瞬の前ででも平気で義母を怒鳴りつけるようになってしまったのだ。
『望むように動けない、生きられない。私の苦しみが、あなたにわかるっていうの! わからないでしょ! わかるはずない!』
『わかるなんて、嘘や綺麗事は言わないでね』
『元看護師だからって、実の母親でもないくせに!』

あえて わざと瞬の前で、少女は義母を怒鳴りつけている。
瞬には そうとしか思えなかった。
人前で義母を責めることで、彼女は 彼女自身の心を静め慰めている。
それでいて――父の前では何も言わない。
言って、父の怒りを買い、父に見捨てられることを、彼女は恐れているのだ。
更に不幸なことに、彼女は、自身の そんな打算と卑劣を自覚していて、自身の言動に自分で傷付いているようだった。

義母と自分自身を傷付けている娘と、娘に傷付けられている母親。
二人の間に、カウンセリング等の手段で 瞬が介入しようとすると、(義)母がそれを止めるのだ。
おそらく それは ますます病人の心を傷付けることになる――と言って。
病状に直接 関係があるとはいえないことなので、患者とその家族が望まない限り、瞬には それを無理強いすることはできなかった。
だが。

看護主任として働いていた頃は、何百人という患者相手の重責ある激務を、迅速にミスなく こなし、多くの人から尊敬され、感謝され、自信と責任感に輝いていた人が、今は たった一人の少女を 十分に満足させることもできず、彼女自身も憔悴しきっている。
そして、瞬を切なげに見詰め、呟くのだ。
「瞬先生……私が 代わってあげられたらいいんですけど……」
と、おそらく看護師としてではなく、母として。
『私が代わってあげられたら、どんなにいいか』
元主任の気持ちがわかるから――瞬は苦しかった。

「那須さん……今は、西園寺さんていうんだけど、娘さんに そんなふうに言われて、うちひしがれている彼女の姿を見ると、何もしてあげられない自分が情けなくて――そして、いつか僕にも、ナターシャちゃんに あんなふうに言われる時がくるのかもしれないと思うと、つらくて……怖くて……」

『望むように動けない、生きられない。私の苦しみが、あなたにわかるっていうの! わからないでしょ! わかるはずない!』
わからないことが つらい。
代わってやれないことが つらい。
その つらさが、あの少女にはわからないのだろうか――。

もちろん、わからないことは罪ではない。
そう叫ばずにいられない彼女の気持ちも、(わかることはできなくても)察することはできる
わからないことは、罪ではなく、ただの事実なのだ。
母も娘も、罪を犯してはいない。
誰をも責めることもできない現実――ただの事実――が、1日の使用料5万円の特別室の閉塞感を一層 強固にしていた。






【next】