「那須さんというのか、その継母は」
瞬の苦渋を、ふいに 氷河の声が遮る。
「多分、会ったことがあるぞ。先々月、ナターシャに ねだられて、おまえの職場参観に行った時。本館中央病棟と東病棟を繋ぐ渡り廊下で、張り切りすぎたナターシャが転んでしまったんだ。あの時、ナターシャを 助け起こしてくれた女性が、通りかかった看護師に“那須主任”と呼ばれていた。制服を着ていないのに妙だと思ったんだ。見事に手の平を擦りむいたナターシャに『痛いの痛いの飛んでけ』をしてくれた。『お山の向こうに飛んでけ』だったかな。『痛いの痛いの飛んでけ』に続きがあることを初めて知った。ナターシャも感心しきりだったな」

初めて聞いた、いつものおまじないの続き。
床に打ちつけた手の痛みも忘れて、瞳を輝かせ喜ぶナターシャの様子が、瞬には容易に思い浮かべることができた。
「うん。きっと、それは那須さんだよ。『お山の向こうに飛んでけ』は、那須さん。病院に勤めていた頃は、泣いてる子供たちに いつも そう言ってあげてた。他の看護師さんたちは、『お空の向こうに飛んでけ』が多数派でね。関東平野は山が見えないから、東京近辺の出身者は お空に飛ばして、山が見える地方の出身者は 山の向こうに飛ばすんだろうって話をしてたことがあった」
「なるほど」

少し、氷河の声の調子が変わったのは、『ナターシャに優しくしてくれた人は悪い人ではない』という考えに基づいてのことのようだった。
その事実によって、氷河の中にあった、母を亡くした娘への同情心は 少し薄れてしまったらしい。

「怪我や病気で苦しむ人間に出会った時、大抵の人間は、程度の差はあれ、相手の境遇を 自然に 我が身に重ねるものだろう。自分の目の前にいる病人や怪我人を気の毒だと思い、かわいそうだと思い、自分も痛いように感じる。自分の苦しみは他人にはわからないと決めつけるのは、苦しむ人に出会った時、その苦しみを我がことのように感じた経験がないからだ。逆に、苦しいのが自分でなくてよかったと思うような奴。ナターシャは そんな子じゃない」
「うん……そうだね。ナターシャちゃんは、自分以外の人の痛みが わかる優しい子だよ」

守られるだけのものでいていい年頃の子供なのに、いつもパパやパパの仲間たちを励まし、気遣い、時には、自分の力で大人たちを守ってやろうとすることさえあるナターシャ。
ナターシャは、人のために生きることができる子である。
優しいだけでなく、強い子なのだ。

だが、だからこそ、
「ナターシャちゃんが、あの傷痕のせいで これから味わうことになるのかもしれない苦しみや悲しみを全部、僕が代わってあげたい……」
と思わずにいられないのである。
彼女の人生に起こる すべての苦しみ、すべての悲しみの肩代わりは無理でも、せめて身体の傷だけでも 自分の身に移すことができたなら、ナターシャの人生から どれほど多くの苦痛や悲嘆が減ることか。
そう考えずにいられない――。

「氷河は僕が傷だらけでも平気でしょう」
「おまえがおまえであることに変わりない」
「ナターシャちゃんも、そんな人に巡り会えればいいんだけど」
「巡り会わなくていい」
氷河が“そんな人”を どういう立ち位置の人間と想定して そう言うのかは、改めて考えるまでもない。
瞬は、友や師や同志――立場はどうあれ、ナターシャの人生に少しでも多く“そんな人”たちに関わってほしいと願っているのに、氷河は最初から恋人限定、しかも“そんな人”は不要無用と決めつけている。
「もう……」
瞬は、短いが深い嘆息を漏らした。

氷河は、愛情深い いい父親だと思う。
命の保障、生活の保障、教育を受けさせてやること。
親が子供にしてやれること、必ずしてやらなければならないことは 多々あるが、親の仕事の中で最も子供を幸福にする仕事は、何といっても“子供を愛すること”だろう。
そして、その仕事で氷河の右に出る者はいない――滅多にいない。
だが、氷河の愛は少々――否、かなり――方向を間違えて進むことがあるのだ。

「氷河。ナターシャちゃんだって、いつかは恋をするよ」
「俺より強くて、俺より いい男で、俺よりナターシャを愛していることを証明できるような男でないなら、恋など、絶対に許さん」
「冗談でも、そういうことを言うのはやめて。それでなくても、ナターシャちゃんは かなりファザコン気味なんだから」

どれほどファザコンの傾向が強くても、パパが平均レベルの男なら、パパ以上の人に出会える可能性はいくらでもあるが、娘をファザコンにする父親として、氷河は あまりに特異で特殊すぎるのだ。
男性の判断基準が“氷河”――という事態は、良くも悪くも ナターシャの人生に多大な影響を及ぼすことになるだろう。
ファザコンの娘に、親馬鹿の父。
最強最悪の組み合わせである。
その最強最悪振りに、瞬が軽い頭痛を覚え始めた時、
「ナターシャは、パパよりカッコいい人でないと、絶対にケッコンしないヨ!」
最強最悪コンビの片割れの力強い宣言が、小春日和のベランダに響いた。






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