「ナターシャちゃん……」 ナターシャが、いつのまにか目を覚ましていた。 しかも、ナターシャは どう見ても、たった今 目覚めたばかりではなさそうな様子である。 彼女の瞳は 左右共、これ以上ないほど ぱっちりと開かれていた。 ナターシャは いったい いつから――どのタイミングで目覚めたのか。 大人たちの会話を どこから聞いていたのか。 それが問題だった。 子供だからといって油断はできない。 困ったことに、ナターシャは、大人の会話を ナターシャなりに かなり深いところまで理解できる理解力を備えた子なのだ。 そして 今回、どうやら ナターシャは、氷河と瞬の会話を かなり早くから聞いていたようだった。 「お山の向こうのおばちゃんは、ナターシャの痛いのを お山の向こうに飛ばしてくれたヨ。お山っていうのは、アタタタヤマだよ」 と、語り出したところを見ると。 「アタタタ山?」 聞いたことのない山の名に、氷河が眉根を寄せる。 覚えやすい山の名前に、瞬は つい、口許をほころばせてしまった。 「阿多多羅山のことだと思う。那須さん、高村智恵子の出生地の近くの出身だと言っていたから」 高村光太郎の『あどけない話』を、はたして 氷河は知っているだろうかと、暫時 瞬は案じたのだが、氷河は それを知っていたらしく、すぐに軽く頷いた。 バーテンダーという人種は、本当に知識の守備範囲が広い。 では、問題は、氷河ではなく ナターシャの方である。 大人たちの会話をナターシャがどこまで、どんなふうに理解しているのか。 それを探るように、瞬はナターシャの表情に視線を走らせた。 「アタタタ山のおばちゃんが ぴんちなの?」 無邪気な心配顔で、ナターシャが問うてくる。 瞬は思わず瞑目してしまったのである。 アテナの聖闘士ともあろうものが――それも黄金聖闘士が、こんな幼い少女に、こんなに近くで、大人の会話を ほぼすべて聞かれていたことに ずっと気付かずにいた事実に絶望して。 「ん……ちょっとね」 咄嗟に、うまく ごまかせる言葉も出てこない。 言い淀む瞬とは対照的に、ナターシャは、これ以上ないほど歯切れがよかった。 「ナターシャ、恩返しに行くヨ! ナターシャの恩返しダヨ!」 そう言って、ナターシャは大張り切りである。 そんなナターシャの即断即行と一路邁進を防ぐべく、ほとんど苦し紛れで言った、 「じゃあ、今度、ナターシャちゃんに小さな機織り機を買ってきてあげるよ」 に、ナターシャが かなり乗り気になってくれたことが、かなり危険なレベルまで医師の守秘義務に違反してしまった瞬にとっての救いといえば救いだった。 |