“救い”と思ったものが、実は“油断”だったことを 瞬が知ったのは、その翌日のこと。
その日、瞬は朝9時から勤務の日勤で、日中のナターシャの世話は氷河の受け持ち。
折しも、光が丘公園の銀杏並木は 今が見頃。
公園のメインストリートには 金色のトンネルができていた。

その通りをパパと一緒に二往復したあとで、ナターシャは、
「黄色い葉っぱをいっぱい見たから、次は 赤い葉っぱを見たい!」
と言い出したのだそうだった。
それも、光が丘公園の芝生広場を囲むカエデやケヤキではなく、本当に真っ赤な葉っぱが見たい――と。
それで、氷河は、ナターシャを光が丘病院の庭に連れてきた。
光が丘病院の庭に、世界三大紅葉樹の一つに数えられるニシキギの木があることを知っていたから。

氷河の期待通り、光が丘病院の庭の中でも特に日当たりのいい場所に植えられているニシキギは、その葉を、見事な紅色に染めていた。
ナターシャは、芝生やベンチの上に散り落ちている紅色の葉の中から、特に 色と形の綺麗なものを数枚 厳選。
紅色の葉っぱを 薄桃色のハンカチに挟んで、それを肩から下げていたポシェットに収めたナターシャは、
「ナターシャは手を洗ってくるから、パパはここから動かないで待っててネ」
と、氷河に指示して、病院の建物の中に入っていった。
そして、そのまま、15分が過ぎても、彼女は氷河の許に戻ってこなかった――のだそうだった。

氷河に電話で院庭に呼び出され、事情を説明された瞬は、その段になって初めて、自分の油断に気付いたのである。
ナターシャは、アタタタ山のおばちゃんに 玩具の機織り機で恩返しをするつもりはなかったのだ。
ナターシャの機転の利くこと、大人顔負けである。
氷河に、恩返しの『お』の字も思い起こさせず、自分を病院に連れてこさせ、パパの目の届かないところに行く理由も、至って自然。
『パパはここから動かないで待ってて』と言えば、氷河は、ナターシャとの約束を守るために、その通りにすることも織り込み済み。
現に、氷河は、“ここから動かないで”瞬に電話をかけてきた。
さすがとしか言いようがない。

「ナターシャちゃんは多分、那須さんに恩返しをしに行ったんだよ」
瞬に そう言われて、氷河は最初は『まさか』という顔になった。
「恩返しに行くといっても、ナターシャは 那須さんの娘の病室の場所も知らないだろう」
「ナターシャちゃんなら、自力で探し出すよ」
瞬に重ねて言われた氷河が、不本意そうに頷く。
ナターシャなら、それくらいのことは難なく やってのけるだろう。
ナターシャは、賢いのだ。
しかも、この恩返しは、ピンチに陥っている親切なおばちゃんを救うためのもの。
つまり ナターシャは、正義を行なおうとしているのだ。
当然、ナターシャは ためらわない。
ためらうことなく、突き進む。

瞬も、無駄な寄り道、回り道はしなかった、
氷河と共に、本館中央病棟から まっすぐ、特別室のある東棟に繋がる廊下を歩きだす。
エレベーターホールで、瞬は、二人の看護師に呼び止められて、報告を受けた。
彼女等は、15分ほど前に、この場所で、小さな女の子に、
『ナターシャは、総合診療科の瞬先生の娘です。アタタタ山のおばちゃんに会いに行かなきゃならないのに、迷子になってしまいました。おばちゃんのいる特別室はどこですか』
と尋ねられたので、西園寺さんの特別室への行き方を教えたというのだ。

『アタタタ山のおばちゃんって、那須主任のことですよね?』
楽しそうに報告してくる看護師たちには、自分たちが まずいことをしてしまったという考えは微塵もないようだった。
瞬も承知のことと信じて、彼女等は、ナターシャに ナターシャの行くべき場所を教えてやったのだろう。
フロアガイドを読み解こうなどとせず、病院内フロアガイドが頭に入っている看護師を掴まえて場所を尋ねるという正攻法。
最も確実で、最も手っ取り早い正面突破。
ナターシャは、本当に利口な少女である。
大人は、そのあとを追いかけるだけだった。






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