目的地を探しあぐねて、無駄に時間を費やしたりしないナターシャは、瞬たちが西園寺家の娘の病室に到着した時には、既に自己紹介を済ませ、病人に自身の訪問目的を伝え終えていた。 「アタタタ山のおばちゃんは、優しい いい人ダヨ! ナターシャが怪我した時、痛いのを『お山の向こうに飛んでけー』って 飛ばしてくれた。ナターシャは 正義の味方だから、アタタタ山のおばちゃんを いじめる悪者をやっつけに来たヨ!」 室内の異常に気付き損ねないように、光が丘病院では特別室等の個室といえど、完全防音の措置は施されていない。 ナターシャの 子供特有の高く響く声は、ドアが閉じられていても、駆けつけた瞬たちに はっきりと聞き取ることができた。 ナターシャの正義の味方宣言に対する病人の答えが聞き取りにくいのは、彼女の体力がナターシャに劣り、音量も小さいから――ではなく、突然の正義の味方の闖入という現況と、現況に至った経緯を、彼女がまだ把握しきれていないからのようだった。 『なに』『誰』『どういう意味』等、断片的な疑問詞だけが、ドアを隔てて立つ瞬たちの耳に聞こえてくる。 そんな悪者のために、ナターシャは再び、親切にも、正義の味方宣言をした。 「ナターシャは正義の味方ダヨ! アタタタ山のおばちゃんの優しい気持ちを わかってあげない悪者を やっつけに来たんダヨ! ナターシャは、悪者を、ナターシャみたいな優しい いい子にするヨ!」 さりげなく自慢が入っていたが、ナターシャは それを自慢だとは思っていないのだろう。 パパもマーマも その仲間たちも、公園や病院で初めて出会う人たちも――誰もがナターシャを いい子だと言う。 それはナターシャにとっては ただの事実、もしくは、人類の共通認識に過ぎないのだ。 「瞬先生……? 何かあったんですか?」 病室のドアの前で 激しい頭痛に襲われかけていた瞬に声を掛けてきたのは、40歳前後の、穏やかな印象の一人の女性だった。 肩下まである髪を後ろで きっちり一つにまとめている。 それが、優しい人の優しい気持ちを わかってあげない悪者の義母――アタタタ山のおばちゃんだった。 彼女は、病院の外に買い物に出ていたらしい。 ショッピングバッグから葡萄の香りがする。 「那須さ――西園寺さん、すみません。娘が勝手に入り込んでしまって――」 「瞬先生の……ナターシャちゃんが?」 「はい、すみません。今すぐ――」 『連れ出しますから』と言う前に ドアを開けようとした瞬を、氷河が止める。 瞬の手に自分の手を重ねて、氷河は、 「中の病人は、少しでも興奮すると心臓に負担がかかる、安静必須の病人か?」 と、瞬に尋ねてきた。 「え……? ううん、彼女の心臓に そういう外的要因で大きな負担がかかることはないけど……」 「なら、待て。ナターシャが、優しさを解しない悪者をどんなふうにやっつけるつもりなのか、知りたい」 「氷河、なに言ってるの!」 これが、病院外の場所で出会った頑健な健常者相手のことなら、しばらく様子を見てから 間に入っていくのもいいかもしれないが、ここは病院で、ナターシャがやっつけようとしている悪者は、自力で歩くこともできない病人なのだ。 瞬は再度 ドアを開けようとしたが、氷河に止められた一瞬のうちに、ナターシャは悪者への攻撃を開始してしまっていた。 否、戦いは始まってしまっていた。 「おねえちゃんは、優しい いい子にならなきゃならないんダヨ。意地悪な悪者でいるのをやめるんダヨ。優しい人をいじめちゃいけないんダヨ」 「子供のくせに、健康な人にはわかんないわよ!」 「きっと おばちゃんは、おねえちゃんより痛いよ。おねえちゃんより つらくて、苦しくて、悲しいヨ。ナターシャ、わかるよ。ナターシャのパパとマーマも そうだもん。ナターシャは、ナターシャの傷痕なんか平気なのに、ナターシャのパパとマーマは いつもナターシャのこと 心配してる」 「……」 病室のドアを開けようとしていた瞬の手から、すっと力が抜ける。 ナターシャは優しい。 それは彼女が強いということで、自分以外の人の心を思い遣ることができる思慮があるということで、正しいということでもある。 「なのに、どうせ わかんないなんて言われたら、おばちゃんは、ますます悲しくて苦しくなる。おねえちゃんには、そんなこともわかんないの!」 ナターシャは、優しく強く、賢く正しい。 ナターシャは、優しい正義の味方なのだ。 だが。 「ナターシャのパパとマーマは、人の気持ちを考えてあげなさいって、いつも言ってるヨ。それが優しいってことなんダヨ」 だが、ナターシャの正義が いつも必ず よいことだとは限らないのだ。 「な……何よ、何よ! 子供のくせに、あなたみたいな子供に、私の苦しさは わからないわよ!」 「わかんないヨ! ナターシャは、人の気持ちを考えあげられる優しい子なのに、おねえちゃんの気持ちはわからない!」 「ど……どうせ、私は優しくないわよ!」 ナターシャの正義だけが、いつも必ず よいこととは限らない。 正義はいつも、複数 存在するのだ。 「わ……私だって、代われるものなら代わりたかった。お母さんの代わりに、私が死にたかった。私を健康に産んでやれなかったって泣くお母さんに、私は平気だって何度も言ったのに、お母さんは泣き続けるばかりだった。そんなに悲しいなら、私が代わってあげたかった。私が代わりに泣いて、私が代わりに死んでしまいたかった。なのに、代わってあげられなかった。人の気持ちなんて、誰にも わからないのよ。だから、お母さんは 私が何を言っても泣くのをやめなかった。私だって……私だって……でも……! だけど!」 「エ……」 病人の声が大きくなり、ナターシャの声が聞こえなくなる。 正義の味方が負けそうになっていた。 瞬が病室のドアを開ける。 今度は氷河も止めなかった。 |