愛と平和のメロディ






平日夕方の6時30分過ぎ。
つまり、氷河が勤務先である店に向かって家を出て しばらく経った頃に、
「瞬。今すぐ、こちらに来てちょうだい。ちょっと電話やメッセージでは伝えにくい急ぎの用があるの。急に預ける当てもないでしょうから、ナターシャちゃんと一緒にいらっしゃい。夕食がまだなら、用意させるわ」
と沙織が言ってきた時点で、怪しむべきだったのだ。

世界の平和に関わるような重大な問題が起きているのなら、沙織は 乙女座の黄金聖闘士だけでなく水瓶座の黄金聖闘士も呼ぶはず。
そうではなかった時点で、沙織の用件が 重大事でも 急を要するものでもないことは わかりきっていたのだから。
それは、地上の平和にも 人類の存続にも関係のない何か。
氷河がいない方が(沙織にとって都合が)よくて、ナターシャは同席した方が(沙織にとって都合が)いい用件。
ナターシャは面白がり、氷河は反対するような何か。
沙織は乙女座の黄金聖闘士に、何か ふざけた厄介事を押しつけようとしている――。

嫌な予感はしていたのだ。瞬とて、沙織に城戸邸に呼びつけられた時から。
沙織が何かを企んでいることを、薄々 察してはいた。
だが、アテナの聖闘士である瞬は、今すぐ来いというアテナの命令に逆らえなかった。
99.99999パーセント、ろくなことではないと わかっていても、逆らえなかった。
アテナの聖闘士というものは、かくも不自由な生き物なのだ。
もちろん、瞬の悪い予感は的中する。

沙織が瞬を城戸邸に呼んだ用件。
瞬の懸念した通り、それは、ろくでもないものだった。
地上の平和にも人類の存亡にも関わりなく、アテナの聖闘士とも 聖域とも無関係。
それは、戦いの対極にある活動で、瞬には 完全に想定外の仕事だった。

沙織が瞬を城戸邸に呼びつけた用件は、
「は? オーケストラの指揮? 僕がですか?」
「ええ。グラード財団交響楽団の指揮をお願いしたいの」
というものだったのだ。
『無茶にも程がある』と叫ぶこともできないほど、瞬は 沙織の無茶振りに驚いた。
いったい何をどうすれば――何をどう見て、どう聞いて、どう判断すれば、そんな無謀を思いつけるのか。
もし どうしても その役目をアテナの聖闘士の誰かに任せなければならないのだとしたら、それを乙女座の黄金聖闘士に任せるのは、他の聖闘士たちが皆 死んでしまった時だけだろうと、8割方 本気で、瞬は思ったのである。

自慢するわけではないが、瞬は、音楽の“お”の字も学んだことはなかった。
明確にアテナに敵対し、地上の平和を脅かす企みに加担していたセイレーンのソレントの笛の音を、呑気に『悪い人に、あんなに美しい笛の音が出せるわけがない』と言い切って、あとで仲間たちに からかわれたり、ラダマンティス同様、琴の音を鑑賞できる風流な耳を持っていなかったせいで、オルフェのデストリップセレナーデを聞いても眠らなかったりと、瞬は その方面の才能には全く恵まれていなかった。
アテナの聖闘士(格闘家)で、医師(理系)で、音楽の才能皆無の人間に、なぜオーケストラの指揮をさせようなどという突拍子の無いことを、沙織は思いついたのか。
神の考えることは、所詮 人間である瞬の理解の臨界を超えていた。

瞬に わかるのは ただ、沙織が そんなふざけたことを考えていられるのだから、今現在 世界の平和は何者にも脅かされていない――ということだけ。
それは多分、とても良いことなのだろうが。

「今度、グラード財団が主催して、指揮者コンクールを開催することになったのよ。文化庁の肝煎りでね。基本的に日本国内居住者を対象として、生徒学生の部と 一般の部の2部門を設けて行なうコンクール。生徒学生の部を設けるのは、指揮者コンクールとしては 極めて画期的な試みよ。グラード財団は、このコンクールを、我が国における指揮者志望者の登竜門的コンクールにしたいと思っているの」
「指揮者コンクール……」
そんなものが開催されることがあるという事実さえ、瞬は知らなかった。

「ええ。最近、外国のコンクールで 日本人指揮者が優勝したり入賞したりすることが多くなっているのだけれど、彼等は国内では ほぼ無名なのよ。国内コンクールの入賞実績がない。それは、つまり、国内コンクールが充実していないということ。だから、彼等は 最初から海外のコンクールに挑戦するしかなかったわけ。でも、それは、外国のコンクールに参加できるほどの経済力がない人間は、才能があっても 永遠に指揮者として認められないということでしょう。それは とても不幸なことよ。文化庁としては、そんな不幸な事態を避けたい。日本国内で賞を取って、奨学金や後見を得て、国際コンクールに挑む――というルートを構築し、確立したい。そのための最初のステップになるコンクールにしたいと思っているわ。優勝者には、東フィル、N響、東京響、日フィル、新日フィルの中から 好きなオケを選んで、好きな曲で、デビューコンサート開催の栄誉が与えられることになっているのよ」

「それは とても有意義な計画だと思います。ですが、それが、僕にどんな関係が」
「目的は、日本出身の国際的指揮者の育成。で、コンクールのPRと参加者募集のための動画を作ることになったのだけど、いっそ 指揮者とはどんなものなのかを 子供たちに知ってもらうための教育ビデオも同時に作って、全国の学校に配ってみてはどうかという提案があったの。指揮者とは何かということを、小中学生にもわかりやすく説明するビデオよ。日本では そういうところから始める必要があるの」
「はあ」
沙織の説明は、『それが僕にどんな関係があるのか』という瞬の質問への答えになっていない。
完全に発言を無視された格好の瞬が 間の抜けた相槌を打ち、そんな瞬に委細構わず、沙織は 自分が語りたいこと(だけ)を語り続けた。

「指揮者が違うと、同じオーケストラが同じ曲を演奏しても、全く違う作品になるわ。それを わかりやすく実演するの。プロと 素人と メトロノームに グラードのオケを指揮させて、同じ曲を演奏させ、指揮者の何たるかを わかってもらう。その素人のパートを あなたにやってもらいたいの」
「ですから、なぜ僕に」
と、瞬が再度 問う前に、
「ナターシャ、指揮者って知ってるヨ! 音楽隊と合唱団に、『せーの!』って合図して、一つにまとめる人ダヨ。みんなのリーダーダヨ。マーマが音楽隊の指揮をするのっ !? 」
ナターシャが、プリンケーキを食べるのを中断し、右手にスプーンを ぎゅっと握りしめ、瞳をきらきらさせて、身を乗り出してきた。

沙織もナターシャも、寄ってたかって瞬の発言を妨げようとする。
ナターシャには悪気がないが(むしろ 好意しかないが)、沙織の優しげな微笑には (瞬の主観では)悪気しか感じられなかった。
「そうよ。瞬がみんなのリーダーになって、ナターシャちゃんに綺麗な音楽を聞かせてくれるの。嬉しいでしょう? ナターシャちゃんのマーマは とっても立派なマーマだって、みんなに自慢できるわ」
「ナターシャは すごく嬉しいヨ! ナターシャ、鼻高々ダヨ!」
「まあ、ナターシャちゃんの鼻が それ以上 高くなったら大変ね」
沙織が、ナターシャの鼻の頭を人差し指で突いて、微笑む。
それから沙織は、ちらりと横目で瞬の顔を盗み見た。

こうしてナターシャを自分の味方にするために、沙織は、ナターシャを連れて来るように言ったのだろう。
そして、氷河が 自分の計画に反対できないようにするために、彼が働いている時を選んで、瞬を城戸邸に呼び寄せた。
さすがは知恵と戦いの女神と言うべきか。
沙織の策略に見事に はまり、瞬は、沙織とナターシャという強敵二人に 一人で立ち向かわなければならなくなってしまったのだった。






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