「で? 二人して、どこに行ってたんだよ? 日本……はないか。家出したら、真っ先に捜索の手がのびる場所だもんな。でも、アンドロメダ島はなくなってたんだから……」
瞬が行く場所に心当たりがない。
修行地が現存する氷河や紫龍と違って、瞬は、城戸邸以外に帰るべき場所を持たない人間だった。
星矢に問われたことに、これは隠す必要がないからか、隠し通すことはできないと思うからか、瞬は即答してきた。

「スコットランドだよ」
「スコットランド? それって、どういうセレクトだよ」
スコットランドと瞬の関わりが見い出せない。
誰かの修行地、出身地だったろうか。
ざっと 記憶の浜辺をさまよってみても、スコットランドが 瞬と瞬に近しい誰かのゆかりの地だったという記憶を、星矢は見付け出すことができなかった。
実際 瞬は、自分に縁のある土地だから そこに向かったわけではなかったらしい。

「僕は、聖域でも日本でもないところなら、どこでもよかったんだ。一人で静かに 自分の考えと気持ちを整理することができるところなら、場所はどこでも。だけど、氷河が来て、『一緒に逃げよう』って言い出して、それで おかしなことになっちゃったの」
「氷河が?」
ということは、行先を決めたのは氷河ということなのだろうか。
星矢は視線を氷河の方に巡らせた。

それまで全く口を挟まず、仲間たちの話を聞いているだけだった氷河が、星矢の視線を受けて初めて、いかにも億劫そうに口を開いた。
日本から聖域に来るなり、可愛いものに飢えていたらしいアテナ神殿の女官たちにナターシャを取られてしまったので、今の氷河は この聖域では まだ、クールで寡黙なイケメン聖闘士で通っていた。
10年以上前の駆け落ち騒動を知る者は減っているのだ。
彼等が子供だった頃から、長い時間が過ぎた。
時の流れは、変わるものと 変わらないものを明瞭に分ける。

「瞬を追って 聖域を出て――俺は、アテネ駅で瞬を見付けたんだ。特段 行く当てもなく悩んでいるようだったから、『逃げるなら、グレトナグリーンだ』と言って、アテネ空港に移動、ロンドンに飛んだ。行くだけなら、スコットランドのエディンバラに飛んで南下する方が速かったんだが、グレトナグリーンに行くなら、やはりイングランドから北上するのでないとな」
氷河は なぜか経路にこだわり、あえて遠回りをしたらしい。
南下と北上では、行く意味合いが違う地とは、どんな土地なのか。
星矢には その理由が思いつかなかった。

「グレトナグリーンって、何だ? 有名な観光地でもないよな? いいスコッチがあるとかか?」
眉根を寄せ 顔をしかめた星矢に、グレトナグリーンの観光資源が何であるのかを教えてくれたのは 紫龍だった。
それを紫龍は最初から知っていたわけではなく、瞬と氷河の駆け落ち(疑惑)騒ぎが起こった際に 初めて知り、忘れたくても忘れられなくなってしまっただけのようだったが。

「グレトナグリーンは、イングランドとスコットランドの国境にある小さな村だ。18世紀中葉、婚姻法が改定されて 結婚の条件が厳しくなったせいで、イングランドでは 結婚できないカップルが あふれかえることになったそうなんだ。イングランドの法律は、スコットランドでは もちろん無効。結婚したいイングランドの恋人たちは スコットランドに押し寄せた。結婚式を挙げられるスコットランドの村で、最もイングランドに近かったのがグレトナグリーンだった――ということらしい。グレトナグリーンに辿り着くことができれば、イングランドでは結婚できなかった恋人たちも、そこで 晴れて夫婦になることができたんだ。そういう経緯で、グレトナグリーンは、結婚に支障のある恋人たちの駆け落ちの名所になった。そういう いわれのある村だから、今でも 多くのカップルが、グレトナグリーンで結婚するために、スコットランド内外からグレトナグリーンを訪れるらしい」

「駆け落ちの名所? 二人して そんなとこに逃げてたら、聖域始まって以来の大スキャンダルに、どばどば 燃料を注ぎまくってるようなもんじゃん」
火に油を注ぐとは、まさに このこと。
熱(暑)いのが苦手な氷雪の聖闘士に、そんな得意技があったとは。
意外なようで、氷河らしくもある 呆れた振舞いに、星矢は そろそろ げんなりしてきた。

「ああ。この不埒者は、むしろ それを狙っていたんだろうな。この大馬鹿野郎は、『瞬と一緒にいる。無事だ』と書かれたカードを、グレトナグリーンの郵便局からアテネの郵便局の私書箱に送りつけるなんてことまでしてくれた。聖域の郵便物の仕分け担当者が、押されていたスタンプを見て、当然 想像することを想像し、瞬と氷河の駆け落ちの噂が、噂ではなく ほとんど事実として、聖域を席捲することになった。氷河と瞬の仲間として、俺が どれだけ恥ずかしい思いをしたか! 黄金聖闘士の威信と尊厳を守るために、俺が どれだけ苦労したか……!」

10年も昔に味わった屈辱や苦労の思い出が、怒涛の勢いで蘇ってきたらしく、紫龍の声と表情が怒りと熱を帯び始める。
そんな騒ぎを起こしておきながら、おそらく氷河は、紫龍に 反省の色も見せず、謝罪の言葉も告げなかったのだろう。
だから 紫龍の中では、それは未だに決着のついていないことのままなのだ。
おそらく10年前が そうだったように、今日も、紫龍に謝ったのは 氷河ではなく瞬の方だった。

「紫龍、ごめんね。あの時は、本当に ごめんなさい。ありがとう」
「おまえのせいじゃない。悪いのは、おまえを あんなところに引っ張っていった氷河の馬鹿野郎で――」
「僕のせいだよ」
それが事実なので、紫龍はそれ以上 誰をも責められなくなる。
彼は逆に、自分の中に非を求めることになった。
「あの時は 俺も……黄金聖闘士になるのが おまえのためだと決めつけて、ほとんど ごり押しだったから――」
「紫龍は いつも、僕のためを思ってくれてたよ」
「……」

紫龍が 僅かに 視線を脇に逸らしたのは、あの時 瞬がなぜ そんなにも黄金聖闘士になることを避けようとしていたのか、その訳が 彼にも 未だにわかっていないからなのだろう。
その訳がわからないから、『自分は瞬に無理強いをしたのではないか』という疑念を、紫龍は 振り払うことができずにいるのだ。
そんな紫龍に、瞬は 僅かに首を左右に振って微笑んだ。

「グレトナグリーンは、のどかで綺麗な村だったよ。いかにもスコットランド的な自然が たくさん残ってて、海に面していて……気候は ちょっと厳しかったけど、心がほっとするような可愛い村だった。観光資源が“村での結婚”なだけあって、ホテルや教会も綺麗だったし」
その可愛い村で、当時も今も、正しいことを求める紫龍とは対照的に 心身の快適さを優先する氷河は、
『しばらく、ここで、俗世を忘れて のんびりしよう。そもそも 聖闘士になること自体が おまえ自身の望んだことじゃなかったんだ。この上、黄金聖闘士になって 一生を戦いに縛りつけられることを、おまえが安易に受け入れられるわけがない。なに、15日も ここにいて、ゆっくり考えれば、どうするのが いちばんいいか、その答えも出るだろう』
と、瞬を甘やかすようなことを言い、氷河自身も瞬と共に季節外れのバカンスを楽しむつもりでいる素振りを見せたのだそうだった。

「あの時は、どうして15日なんだろう? って思ったんだけど……」
言いながら、瞬が苦笑いをする。
「15日に、何か特別な意味があったのか?」
星矢の その疑念に答えたのは、氷河でも瞬でもなく、またしても怒りに声を震わせた紫龍だった。

「18世紀には、グレトナグリーンに辿り着きさえすれば、スコットランド人でなくても、誰でもすぐにグレトナグリーンの教会で挙げることができていたそうなんだが、今は、外国人がグレトナグリーンで結婚するには、登記所の掲示板に 結婚の意思告知を貼り出して、15日間 異議を唱える者が現われなかった場合に限られているらしい。10年前、氷河のド阿呆は、勝手に 自分と瞬の婚姻告知をグレトナグリーンの登記所の掲示板に貼り出して、本気で瞬と結婚するつもりだったんだ!」
10年後の今でも 氷河が法律上は独身であることを鑑みれば、氷河の その目論見は失敗に終わったのだろう。
もちろん、悪巧みというものは、未遂なら無罪というものではないが。

「さすがは氷河。まともなことは一切しない」
星矢は素直に感心した。
「まともというなら、ハーデス軍の残党の方が、氷河より はるかに まともで良識があったな」
「へ?」

『真に恐れるべきは、有能な敵ではなく無能な味方である』は、ナポレオン。
『無能な味方よりも有能な敵の方が役に立つ』は、マキャヴェリ。
『活動的な馬鹿より恐ろしいものはない』は、ゲーテ。
10年前、紫龍は、世界の著名人たちの金言を実感する経験をしたのだった。

「瞬と氷河がグレトナグリーンに渡って、ちょうど2週間後、15日が過ぎる前に、テスプロティアのハーデス神殿に集まっていた冥界軍の残党が、アテナに対して 最後の悪足掻きを企てて 一斉蜂起したんだ。その気配を察した瞬は、迷うことなく戦いの中に戻ってきた」

まともなことは一切しない男の悪巧みで、いつのまにか結婚してしまっていることと、まともで良識的な敵によって、戦いの日々の中に引きずり込まれること。
そのどちらが瞬にとって幸福なことだったのかと考えると、星矢は少し切ない気持ちになったのである。
瞬は、人と争い 人を傷付けることが嫌いなのだ。幼い頃から ずっと。
今も それは変わらないだろうに、瞬の人生は、まともな敵によって決してしまったのだった。






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