ハインシュタイン城は、ロマネスク様式とゴシック様式が微妙に入り混じった、美しい山城だった。
山の麓に小さな集落が点在していて、ハインシュイン家は、第一次大戦前は付近一帯の領主だったらしい。
だが、第一次大戦後のパリ講和会議で、ドイツの支配者層の そういった特権は失われた。
それでも――第一次大戦後に領主でなくなり、第二次大戦後の東西ドイツ分断で東ドイツ領になってからも――ハインシュタイン家の当主は 周辺地域の民から慕われる、この地方の有力者であり続けたらしい。先代までは。

ハインシュタイン家は、今では、どちらかというと呪われた不吉な名家として、近隣の住人には敬遠されているという話だった。
今から13年ほど前、先代当主、その夫人、当時ハインシュタイン家に仕えていた使用人たちが、まるで伝染病に侵されでもしたかのように 立て続けに亡くなるという不幸があったために。
たった二人だけ生き残った姉弟が、“幸運”というより“不吉”の印象が強い二人だったこと以外、ハインシュタイン家が 呪われているという噂には、どんな根拠もないのだが。

――と、そんなことを瞬に語ってくれたのは、ハインシュタイン城のある山の麓に広がる小村の役場の担当職員だった。
ハインシュタイン家が 呪われているという噂には、どんな根拠もないが、長く滞在するのはやめた方がいいという忠告付きで。
ハインシュタイン城は 給金を弾んでくれるので、使用人として勤めに出る者は多いのだが、城内の陰鬱な空気が 気を滅入らせるので、城に勤める者たちは1週間交代で ローテーションを組んでいるのだそうだった。

「ハンガリーのエリザベート・バートリや フランスのジル・ド・レ のように、お城に勤めに行って 戻ってこなかった者は、一人もいないんだけどね」
瞬に そう言う村役場の職員には、自分が無責任な噂を広めているという自覚は全くないらしい。
逆に 彼は、自分を 事情を知らない外国からの旅行者に有益な忠告を与える親切な人間だと 信じているようだった。



ハインシュタイン城の正面入り口で、瞬を出迎え、家人への取り次ぎをしたのは、そんなローテーションに組み込まれている小間使いの一人だったのだろう。
まだ若い――といっても、瞬より5、6歳は年上だろうが――女性だった。
クリスマスには まだ間がある12月。
ハインシュタイン城には 訪問客自体が少ない――滅多にいないらしく、瞬に来訪を告げられた小間使いは、豆鉄砲を食らった鳩のように 派手に驚いて、瞬を扉の外に立たせたまま、そして 扉を開け放したまま、『お待ちください』の一言も言わずに、城の奥に駆け戻っていった。
重々しい真鍮製の扉の前で待つこと 3分。
その3分の後、これ以上ないくらい苛立っていることがわかる女性の声が、城の奥から、瞬のいる方へと近付いてきた。

「日本のグラード財団? その名は知っているが、城戸沙織などという名前は聞いたこともない。アポイントメントも取らずに 突然 訪ねてくる客など、さっさと追い返してしまいなさい! いちいち私に確認などしなくてもよろしい!」
「ですが、パンドラ様。とても お綺麗で可愛らしい方なんですよ……!」
食い下がってくれているのが、瞬を出迎えてくれた小間使いの女性。
パンドラ様と呼ばれているのが、この館の当主の姉という人だろう。と、瞬は判断した。

それは さておき。
瞬は、沙織に、『いつ行っても、大歓迎してくれるはずよ』と言われて、この城にやってきたのである。
当然、沙織から ハインシュタイン家に話は通じているはずだと思っていた。
が、そうではなかったのだろうか。
何か手違いがあったのだろうか。
だとしたら、まずは謝罪。そして、出直した方がいいかもしれない。

そんなことを考えて 身体を縮こまらせていた瞬の前に、威風 辺りを払うといった風情で姿を現したのは、意外にも ひどく華奢な少女だった。
長い黒髪に、ドレスも黒。
小間使いの女性より更に若い、間違いなく十代、間違いなく少女と呼ぶべき年頃の、まさしく“少女”だった。

――そのようだった。
彼女の顔以外――手足や体つきから判断する限りでは。
顔以外――瞬は、彼女の顔を まともに見ることができなかったのだのである。
怖いから――というより、自分の非礼が 恥ずかしく、申し訳なかったから。
「す……すみません。僕は、日本からまいりました瞬といいます。何か手違いがありましたでしょうか。僕、グラード財団総帥の城戸沙織に、こちらに1週間ほど滞在させていただけることになっていると言われて、やってきたのですが――」

黒衣の女性は、背丈は瞬とほとんど同じだったが、瞬は、恐る恐る上目使いに彼女の顔を(心情的に)見上げることになった。
眉を吊り上げ憤怒の表情を作っている女性の顔を想像していたのだが、瞬が おずおずと視線を向けると、彼女は びっくりしたように瞳を見開き――彼女は どう見ても 怒ってはいなかった。
もし 怒っていたのだったとしても、彼女は その憤怒を 一瞬で消し去ってしまったのだ。

「ようこそ おいでくださいました。瞬様」
黒衣の女主人は そう言って、丁寧に瞬に対して 腰を折った。
取り次いだ小間使いが、女主人の豹変の訳がわからず きょとんとしている。
「私は 当ハインシュタイン家当主の姉で、パンドラと申します。お会いできて、嬉しゅうございます」

見事に180度の豹変。
それでも、瞬は安心できなかった。逆に、ますます恐縮した。
「本当に申し訳ありません。ご迷惑でしたら、僕は麓の村のホテルで」
「下の村にホテルなどありません。遠慮は無用。そのような ご遠慮は、悲しいです。この城は、いつでも、瞬様のために開かれております。お入りください。ああ、そして、ぜひ 弟にお会いください」
「あ……でも……」

瞬に遠慮する隙を与えないように――むしろ、瞬を逃がすまいとするかのように、パンドラは 短く てきぱきした声で、小間使いに命じた。
「お茶の用意を、すぐに。食事と 客用寝室の準備も、手落ちのないように」
そうして、小間使いの返事を待たずに 瞬の方に向き直り、瞬の前に手を差しのべて、瞬を城内に招じ入れる。
そこまでされて 拒む(逃げる)ことは、自分の気持ちより 相手の気持ちを優先する質の瞬には 到底 できることではなかった。

招き入れられた城のエントランスホールは広かった。そして、造りが古い。
おそらく、その昔、この館から戦地に向かい 生還した戦士たちが、このホールに武器を置き、このホールで甲冑や鎖帷子を外したのだろう。
柱は大理石。床は凝った意匠の紋様が施されたタイル。
壁のあちこちに、ハインシュタイン家の紋章らしきレリーフが施されている。

ハインシュタイン城は16世紀か17世紀に建てられて、改築増築を繰り返し、現代人の生活にも耐え得るよう、万全のメンテナンスが為されている城のようだった。
城は16世紀。
パンドラの長いドレスは19世紀末。
小間使いは、メイド服がコスプレにしか見えない、今時の十代もしくは二十代。
照明や空調施設は、おそらく 最新最先端のものである。
あらゆることがアンバランス。
そういう意味で、ハインシュタイン城は 奇妙な城だった。






【next】