「ネ……ネズミは、ほら、ネズミ算より、お婿さん選びのお話の方が有名だよ。『ねずみの嫁入り』っていうお話。ナターシャちゃんは まだ読んだことないでしょう?」 「ナターシャ、読んだことないヨ。ねずみの嫁入り? ネズミさんが王子様と結婚するお話 !? 」 炬燵のお誕生日席で 立ち膝の態勢になり、ナターシャが身を乗り出してくる。 『ねずみの嫁入り』で、ナターシャは 276億8257万4402匹のネズミの件は忘れてくれたようだった。 やはり、王子様の力は大きい。 自分の隣りに座っている氷河が 唇をへの字に歪めたことには気付いたのだが、瞬は 氷河の不機嫌を、当然のごとくに無視した。 ナターシャが マーマの偏った教育のせいで、276億8257万4402匹のネズミの幻影に怯え続ける一生を過ごすより、カッコいい王子様を夢見る少女でいてくれる方が、彼女の人生が実り多いものになることは確実なのだ。 「ナターシャちゃんみたいに可愛い女の子ネズミのパパが、大切な娘にふさわしい世界一の王子様を探して頑張るお話だよ」 「パパが頑張る お話なのっ !? 」 嬉しそうに そう問い返すナターシャの期待に満ち満ちた表情を見せられては、可愛い女の子のパパである氷河としても、その不愉快な話をやめさせるわけにはいかない。 さすがに笑顔を作ることはできないので無表情で、氷河は口をつぐんで沈黙を守るポーズを取ることになった。 「そう、パパが頑張る お話だよ。昔、ある国の大きなお城のお米の蔵に、とっても可愛いネズミの女の子がいたの。女の子のパパは、大切な娘のために、世界一 強いお婿さんを見付けてあげなきゃならないと考えたんだ。それで、女の子のパパは、まず いちばん最初に、世界を いつも明るく照らしてくれるお陽様のところに行って、娘のお婿さんになってくださいと頼んだ。そうしたら、お陽様は、自分を 覆い隠してしまう雲さんの方が強いって答えたんだ。だから、ネズミのパパは 次に雲さんのところに行った。雲さんは、自分を吹き飛ばす風さんの方が強いって言う。風さんのところに行くと、どんなに びゅーびゅー吹いても びくともしない蔵の壁さんの方が強いって言う。それで、女の子のパパは 蔵の壁さんのところに娘のお婿さんになってくださいと頼みに行ったんだよ。そしたら、ちょうど、若くて元気なネズミの若者が 蔵の壁を齧って、穴を開けたところだったんだ」 「可愛い女の子ネズミは、若くて元気な若者ネズミとケッコンしたんダネ !! 」 お話の結末は、瞬より先にナターシャが、弾んだ声で発表した。 さすがにナターシャは、王子様とお姫様のハッピーエンド・ストーリーに詳しい。 瞬は、 「ナターシャちゃん、大当たりー!」 と、笑顔で応じた。 瞬の笑顔は、ナターシャのハッピーエンド志向を嬉しく思ったからである。 20年ほど前、城戸邸のラウンジで、幼かった瞬が 幼かった氷河に 初めて この日本の昔話を語り聞かせた時、未来のナターシャのパパは、 『なぜネズミの父親は、自分たちより強い猫のところに 娘を嫁入りさせることを考えなかったんだ?』 という、恐ろしい質問を瞬に投げ掛けてきたのだ。 その質問で 瞬を泣かせたことを、どうやら氷河は忘れている。 はっきり覚えていた紫龍は、呑気に沈黙のポーズを堅持している氷河の上に、呆れたような視線を投じることになった。 星矢も、その時に、『ロシア人はそう考えるのかー』と、何とも言えない気持ちになったことを憶えていた。 同じ質問を、一人の女の子のパパになった今の氷河は口にすることができるのだろうか。 氷河に問うてみたいと思ったのは、瞬だけではなかっただろう。 パパとマーマの間にあった過去のエピソードを知らないナターシャは、ハッピーエンドの『ねずみの嫁入り』のお話が、大いに気に入ったらしい。 遠い空の高いところにいて地上世界を照らしているお陽様より、同じ世界に生きている若くて元気な若者ネズミ。 ナターシャは、賢明で現実的で、自分が幸せに至る道が どこにあるのかを、正確に把握できている少女なのだ。 だから、ナターシャは、誰よりも幸せになれる少女だったろう。 彼女の父親が、氷河でさえなかったなら。 「ナターシャは、パパより強くてカッコいい人とケッコンするんダヨ。じゃないとダメだって、パパが いつも言ってる」 頬を紅潮させ、気負い込んだ様子で、ナターシャが力説した時点で、その場にいた氷河以外の大人たちは皆、ナターシャの前途多難を予感せずにはいられなかったのである。 ナターシャの王子様候補として登場したお陽様のように特別な権力者も、若く元気な若者も、問答無用で却下する氷河の姿が、瞬たちの目には今から はっきりと見えていた。 「……氷河より強い奴かー。それは なかなか難しい条件だな。この地上世界には 数えるくらいしかいないわけだし。いちばん身近にいるのは瞬だけど――」 「マーマは ナターシャのマーマで、パパのシュンだから、駄目ダヨ。マーマ以外に パパより強い人はいないの? 星矢ちゃんは パパより強くないの?」 「俺は、ピンチには強いから、ピンチになったら 負け知らずだけど……。んー、氷河はナターシャのためとなったら無敵状態になるだろうから、意外と いい勝負になったりするのかなあ……」 首をかしげかしげしながら 結論は出さずに、星矢はボールを紫龍に投げた。 「紫龍はどうだよ? 氷河に勝つ自信はあるか?」 星矢と違って、紫龍の答えは明瞭。 「戦う相手が氷河では、勝っても負けても不名誉にしかならん」 彼は自身の名誉のために棄権を宣言、不戦敗を選んだ。 棄権を選ぶ行為は極めて賢明だが、その理由が どうにも気に入らない。 そんな顔をして、氷河は、炬燵の向かい側にいる紫龍を睨みつけた。 「パパに勝てるくらい強い人は、世界に マーマと星矢ちゃんしかいないの?」 「あ?」 そう尋ねるナターシャの声が あまり沈んでいないのは、実はナターシャ自身が、パパより強くてカッコいい人など存在するはずがないと思っているからか。 あるいは、存在してほしくないと、心のどころかで願っているからなのか。 だとしたら それは、ファザコン娘の最悪の症状。 このままでは、『マーマより素晴らしい女性はいない』と信じて貫き、マーマを至高の女性の地位に置いたまま、恋した相手が同性の瞬だった どこぞのマザコン息子の二の舞を、ナターシャまでが舞うことになりかねない。 その場合 問題なのは、氷河が瞬に出会えたように、ナターシャもまた、瞬レベルの誰かに出会えるとは限らない――ということである。 その可能性は、限りなく0に近い。 ゆえに、ナターシャのファザコンは治した方がいい。 そう考えた星矢が、慌てて切ったカードが、 「一輝はいい勝負だろうな。氷河とは 天敵同士だ」 ――だったのだから、星矢の世界はディープだが狭い。のかもしれなかった。 「一輝ニーサンがいちばん強いの?」 「一輝も 瞬には勝てないだろうけど――」 この問題において、瞬は、『ねずみの嫁入り』の話における猫のようなものである。 瞬を、比較対象のステージに上げてはいけないのだ。 星矢は、比較対象のステージから瞬を下ろし、なぜか昔から聖闘士最強と呼ばれてきた一輝を、単体で ステージ上に置いた。 「一輝は獅子座の黄金聖闘士だろ。獅子は百獣の王って言われてるけど、1対1のサシの勝負なら、実はライオンよりトラの方が強いらしいぞ」 「トラがいちばん強いの?」 「んー、どうかなあ。トラとクマのバトルなんて見たことないけど、腹を空かせた大きなヒグマなら、トラに勝つかもしれないな。でも、ツキノワグマやパンダくらいなら トラの圧勝だろうから、やっぱ、トラが最強なのかな?」 星矢が、視線で すがるように そう言ったのは、最強がトラでは困るからだった。 『ねずみの嫁入り』のように、この茶飲み話は、百獣の王ライオン、最強のトラから始めて、最強の“ナターシャと同じ年頃の男の子”という結末に至らなければならないのだ。 「中国には、トラの威を借るキツネという、トラより賢くて強いキツネの話があるが……」 窮地にある仲間を救うべく、差しのべられた紫龍の手は残念ながら、ナターシャの お気に召さなかった。 「ナターシャ、キツネさんは可愛いと思うけど、キツネさんを彼氏にしたくないヨ」 「えーと、確か、キツネが勝てない虫がいなかったか? キツネを全滅の危機に追い込むくらい強い虫」 と言った時、星矢の脳裏にあった“強い虫”のイメージは、カブトムシやクワガタのそれだった。 そういった昆虫が相手なら、『もっと強いのは、普通の男の子』に繋げられる。 しかし、キツネが勝てない虫は そんなものではなかったのだ。 「それって、エキノコックスのこと? 寄生虫の?」 「ナターシャ、寄生虫は彼氏にしたくないし、ペットにもしたくないヨ」 ナターシャの顔は、怒っているような泣きそうな――ともかく、ひどく歪んでいた。 瞬が慌ててフォローに入る。 「だ……大丈夫だよ。今はエキノコックスの特効薬ができてるんだ。アルベンダゾールっていう」 「ナターシャ、薬とケッコンするの?」 「……」 このあたりで、大人たちは完全に手詰まり。 手も足も出ない、八方塞がり。 いわゆる、詰み、投了、降参状態だった。 大人が三人掛かりで、“パパより強くてカッコいい相手”を求めて辿り着いたのが、寄生虫の特効薬とは。 この結末を喜んでいるのは、愛娘を他の男に渡したくない親馬鹿パパだけだったろう。 そう考えてみると、『ねずみの嫁入り』は 実に よくできた話である。 なにしろ、娘の父親ネズミが 非常識な親馬鹿パパではないのだ。 「ま、どっちにしても、そんなのずっと先のことだし」 という星矢の一言で、ナターシャの嫁入り話は打ち止めになった(打ち止めにした)。 |