「なら、おまえは 今すぐ、その仲良しのパパとマーマのところに帰れ。おまえみたいな子供が、ここに一人でいたら、間違いなく1時間以内に死ぬぞ」 どんだけ上等のコートを着てたって、そんなことは、風よけになる木の1本もない 吹きっさらしの雪原では無意味だ。 南極点に行くための装備を整えた 先進国の金のかかった探検隊だって、動けなくなれば死ぬしかない。 それが自然で、それが人間ってもんだ。 自然は厳しく冷酷で、その自然に比べたら、人間は弱っちいものなんだ。 俺は、この子を死なせたくないから 親切心で忠告してやったのに、常識知らずの いいとこのお嬢様ときたら! 「大丈夫。ナターシャは死なないヨ。ナターシャは、神様の力でここに来たんだもん。ナターシャは、去年一年 とってもいい子だったんダヨ。それで、時間の神様のクロちゃんが、ご褒美に、どこでも好きな時代に連れてってあげるって、言ってくれたノ。ナターシャは、パパが いちばん悲しくて つらくて 寂しかった時代に行って、悲しくて つらくて 寂しいパパを 励ましてあげたいって言ったノ。それで、ナターシャは、ここに来たんダヨ。パパは、今、とっても悲しくて つらくて 寂しいんでしょ? でも、大丈夫ダヨ。パパは もうすぐマーマに会えるからネ!」 おい。 このチビの飛んだネジは1本2本じゃなくて、100本レベルか? まさか、ネジが飛んでるのは 実は俺の方だなんてことはないよな? 生意気にも俺のマーマと同じ名前のガキの言う言葉の意味が、俺には 1パーセントもわからんのだが。 単語の意味は100パーセント わかるのに、それが文章になった途端、理解できるのは 1パーセント以下。 ここまで支離滅裂な文章を作れるのって、ある種の才能だぞ、まじで。 「パパはいつもナターシャに言ってるノ。瞬に出会った時から、俺は孤独でなくなった。瞬は優しくて綺麗なだけじゃなく、誰よりも強いから、絶対に俺を置いて死んだりしない。俺のために生きていてくれと言うと、優しくて強い瞬は 必ず その約束を守る。だから 俺は瞬と出会ったことで、永遠に孤独とは縁がなくなったんだって」 お、初めて意味のわからん単語が出てきた。 『シュン』 出会った瞬間から、その人を永遠に孤独と無縁にするなんて、『シュン』ってのは、神様みたいなもんなんだろうか。 でも、俺は、別に羨ましくなんかないぞ。 『シュン』は持ってないけど、俺にはマーマがいるんだから。 「おまえ、もう少し、意味のわかることを言えよ。俺は、別に、悲しくもないし、つらくもないし、寂しくもない。孤独でもない。俺は明日、マーマと一緒に日本に行くんだ。何のためなのかは知らないけど、日本はシベリアより ずっとあったかいって、マーマは言ってた」 日本に行く予定がなくても、マーマが一緒なんだから、俺が悲しくて つらくて 寂しいわけがない。 「エ……」 チビのナターシャは、俺とマーマの日本行きの話を聞くと、それでなくても大きな目を更に大きく見開いた。 「明日、マーマと日本に……お船で……?」 チビナターシャが、かすれた声で訊いてくる。 訊いてきたんだよな? そう思ったから、俺は頷いた。 今シーデンは例年より雪が多いけど、例年より気温は高い。 なにしろ、東シベリアの港が まだ完全に凍ってないんだ。 でも、それもさすがに、今日明日まで。 多分 今シーズン最後の船で、明日、俺はマーマと日本に渡る。 俺がその予定だって言うと、チビナターシャは 急に黙り込んで――チビナターシャは、チビのくせに 何か悩んでるみたいだった。 大きな目を見開いたまま、それまでずっと機嫌よさそうに笑ってた顔を無表情にして、俺の顔を見たり、自分の足元を見たり、遠い雪原を見渡したり、長いことずっと そうしてて、最後にゆっくり俯きながら目を閉じた。 次にチビナターシャが顔を上げて 俺を見た時、チビナターシャの目は、必死っていうか、壮絶っていうか、覚悟を決めたサムライの目っていうか――もちろん俺はサムライなんて見たことはないんだけど、とにかく そんな目をしてた。 そして、チビナターシャは、意を決したサムライのそれみたいに きっぱりした口調で、俺に言ったんだ。 「行っちゃ 駄目ダヨ! 行ったら、パパは、悲しくて つらくて 寂しいパパになる。行っちゃ 駄目! 日本に行くのは やめて!」 「なに言ってるんだ、おまえ」 必死で決死の形相になっても、やっぱり言ってることを理解できる割合は1パーセント以下。 パパって、何だよ。 俺には そんなものはいないんだよ。 悲しくて つらくて 寂しいパパ? それは、どこの誰のことなんだ。 「日本に行くのは やめて! それで、パパがナターシャのパパになってくれなくてもいい! パパがナターシャのマーマに会えなくてもいい! ナターシャが幸せになれなくてもいい! ナターシャは、一人ぽっちの寂しいナターシャのままでいい! パパが 悲しくて つらくて 寂しいパパになるのは嫌! 行っちゃ駄目!」 わけのわからないことをわめいて、チビナターシャは、最後には大粒の涙を流して泣き出した。 だから、なに言ってるんだって。 やめてくれよ。 俺が泣かせてみたいで、気分が悪いじゃないか。 俺が泣かせたわけじゃないんだけど――俺は絶対に この子をいじめてないし――でも、なんでだか この子が俺のために泣いてくれてるってことは、俺にもわかったんだ。 チビナターシャが何を言ってるのかは、1パーセントもわかってないのに。 どっちにしても、小さな女の子を泣かせたままにもしておけないから、慰めてやろうとして――チビナターシャの頭に手を置こうとしたら、次の瞬間、俺の目の前から 小さなナターシャの姿は消えてしまっていた。 |