それは、聖域に、バビロニアへの内政干渉をしろということなのだろうか。
統治者が違うだけならまだしも、守護する神が違う国の内政への干渉を要請すると?
バビロニアの神官長の要請は バビロニア国王への反逆行為に、聖域という国外の力を引き込もうとするもの。
そんなことを 外国勢力に頼むこと自体がおかしいと、バビロニアの神官たちは思わないのか。
アテナは、『それは、バビロニアの主権を侵すことになるので、できない』と、ほぼ即答したらしいのだが、自分の目の前の邪魔物を取り除くことにのみ夢中になっているバビロニアの神官たちには、国のことなど――バビロニアだけでなく、聖域という国の立場も――どうでもいいことであるらしい。

これは“国”の問題ではない。現国王は最初の登場時からおかしかった――と、神官長の使いの神官は言った。
バビロニアの先代の王は、愛人の望みを叶えることが権力者を務めだと勘違いしたような王だった。
王に選ばれて王宮の主になるなり、王宮で最も美しい女官を愛人とし、彼女に下僕のように仕え始めた。
神官たちは、すぐに その王を凶事払いの儀式で排除し、次の王を選ぶ儀式を執り行なったのである。
王宮からバビロンの都の空に 王気を感じ取る鳥を飛ばし、その鳥が止まった屋根の家の住人の中で、最も分別のある成人男子を、バビロニアの国王として迎える儀式を。

その家に成人男子がいなければ、また鳥を飛ばす。
今回 鳥が最初に降り立った家に、成人男子はいなかった。
だが、次に飛ばした時も、鳥は同じ家の屋根に降り立った。
三度目も同じ。
屋根に何らかの仕掛けがあるのかと疑われ、調べてはみたが、どんな仕掛けも見付けられない。
そもそも 問題の家は、鳥を呼び寄せる仕掛けなど 仕掛けようもないほど、小さくて貧しい茅葺き屋根の苫屋だったのだ。

その家に住んでいたのは、親を亡くしたばかりの十代の少年が一人だけだった。
神官たちは 悩んだ末、その少年を王宮に移動させ、再度 鳥をバビロンの都の空に放った。
王宮から解き放たれた鳥は、今度は王宮の尖塔に留まったまま動かない。
もはや 神に選ばれた次の王が その少年であることは、誰の目にも明らかだった。

まるで 本当に神の意思が鳥に乗り移っているようで、本当に神が その少年を王位に就くことを望んでいるようで不気味だという神官たちの声はあったが、その思いを公にするほど“神”官たちも愚かではなかった。
いつになく強い神意を感じられる神選びの儀式を 固唾を飲んで見守っていた民衆の目をごまかすこともできず、我等は しぶしぶ その少年をバビロニアの王位に就けてやったのだ――。

――と、そこまで露骨な言い方はしなかったが、そういう意味のことを、極めて婉曲的に美しい言葉を用いて、バビロニア王国の神官長の使者である下級神官は アテナと 彼女の護衛についていた聖闘士たちの前で語った。
大人しそうで 神殿の神官たちの意に従うことしかできそうにない子供だったから、(特別に神の意思を受け入れて)我々が王にしてやったのに――という意味のことを、神であるアテナの前で 悪びれもせずに堂々と語るバビロニアの使者に、氷河は怒りを通り越して 呆けてしまったのである。

ところが、その、神官はおろか女官にすら文句の一つも言えないような 大人しげな子供が、予想に反して、我を持ち、我を張る強情者だったらしい。
バビロニアでは、基本的に、百人以上の人間を動かす事業は、それが戦であれ公共事業の類であれ、王の裁可を得なければならないことになっている。
神の意によって選ばれた王だけに、国の民を動かす権利があるのだ。
だが――。

絶対に勝てる弱小国との戦に、王が開戦の裁可を下さない。
強大な軍を持つ国が バビロニアを攻めてくるという情報が入ってきたのに、王は迎え撃つ準備に取り掛かる裁可を下さない。
そうかと思うと、無駄になるとわかっている灌漑事業に、多くの人間と財源を割く裁可を、勝手に下す。
バビロンの都に貧民や孤児のための救護施設や養護施設の建設を指示する。
旱魃続きで 税を納められないという民の訴えを、そのまま信じて、国の穀倉から麦を放出する。
等々、気まぐれに やりたい放題。

民には、騙しやすく甘っちょろい王だと侮られ 歓迎されているが、あんな王では、バビロニアの国は 早晩 滅んでしまう。
――という意味のことを、バビロニアの使者は、極めて婉曲的に美しい言葉を用いて訴えた。
凶事の前兆というので、凶事払いの儀式に挑ませたのに、あの国王は 一向に死ぬ気配がない。
凶事払いの儀式を、既に9回も乗り越えた。

幾度も戦に出た熟練の騎馬兵でさえ、すぐに振り落とされるだろうほどに狂った暴れ馬から、決して振り落とされず、むしろ 暴れ馬を手懐けてみせさえする。
あれは、バビロニアを滅ぼすために敵国が送り込んだ偽の王か、いずれかの邪神が 人間界を混乱させるために、悪意を持って送り込んできた悪の手先に違いない。
――という意味のことを、バビロニアの使者は、極めて婉曲的に美しい言葉を用いて以下略。

アテナを信じず、ギリシャの神々も信じず、バビロニアの土着の神をも信じていないくせに、自分たちに敵意を持つ神の存在は信じるのか。それがバビロニアの神官なのかと、氷河は本気で彼等に問いたかったのである。
その上、王の首のすげ替えが思い通りにできなくなったから 力を貸してくれとは、バビロニアは聖域を自国の下部組織(それも暗殺組織)とでも思っているのか――と。

アテナの前で、皮肉や嫌味を並べ立てるわけにもいかず、氷河は かろうじて怒声を張り上げたい自分を抑えることができたのだが、アテナも、思いは 氷河と似たり寄ったりだったらしい。
バビロニアからの使いの男に、彼女は 少し困ったような笑みを浮かべて答えた。
「これが、これまでのように、バビロニアと他の国との紛争を治めてほしいという依頼なら、聖域としても、地上世界の平和を守るため、アテナの聖闘士を派遣しないこともないのですが……。今回の依頼は、バビロニアの国王の排除に 私の聖闘士の力を貸してほしいという依頼。それはさすがに、聖域が関わっていいことではないでしょう。バビロニアの現国王が、バビロニアの兵を使って、他国と戦ばかりしているというのなら、力を貸す大義名分も立つでしょうが、その若く しぶとく どうあっても殺せない国王陛下、王位に就いてから、どんな戦もしていないのでしょう? 聖域は好戦的でない国や国王は大歓迎よ?」

「あの王は、バビロニア神殿の意向に逆らい、バビロニアの国益を無視しているのだ!」
畏れ多くも女神アテナに大声で 反論してから、バビロニアの使者の下っ端神官は、自分が礼を失し、口を滑らせてしまったことに気付いたようだった。
そもそも 聖域が望むものは、地上世界の平和。バビロニアの国益など 知ったことではない。
「あ……いえ、ですから、あの王は異常です。どうやっても排除できない。強い力を持った邪神か悪魔に守られていて、いずれバビロニアだけでなく、世界を滅ぼすことになる危険の種です。ぜひ アテナのお力で、あの邪悪の王から バビロニアと世界を守っていただきたいと、それが神官長からの依頼でございます」

今更 綺麗事に言い繕おうとしても、無意味、無駄。発した言葉は 消し去れない。
バビロニアの神官長の使いの話を聞いて、アテナは、『もし聖域が どうしても どちらかの味方につかなければならないのなら、それは、バビロニアの神官たちではなく、バビロニアの王の方』と、考えたようだった。
彼女は、アテナ神殿の謁見の間に控えていた聖闘士たちの顔を ひと渡り眺めて、最後に その視線を 氷河の上に据えた。

「地上世界に争いを もたらしているわけではない王に対して、聖域が何かをすることはできないけれど、何もせず放置するというのも 気掛かりだから……氷河。あなた、私の名代として バビロニアに行き、その国王に会って、彼の正邪を見極めてきてちょうだい。とても綺麗な少年だということだから、こちちも負けないほどの美形を送り込むことにしましょう」
アテナに、氷河の容姿を褒める意図はなかっただろう。
アテナは この件を 青銅聖闘士一人で十分 片付く案件と判断したのだ。
氷河は、アテナの その判断を妥当で的確だと思ったし、傲慢なバビロニアの使いに対して、留飲を下げた部分もあったのだが、『バビロニアに派遣される、一人で十分な青銅聖闘士が、なぜ自分なのだ !? 』と憤りも覚えたのである。
バビロニアなどという胸糞の悪い国に、氷河は出掛けて行きたくなかったから。

氷河が、それでも アテナの指示に従うことにしたのは、アテナに、
「聖域とは、いろいろ お付き合いのあるバビロニア。見極めてきてほしいのは、王の正体だけではなくてよ」
と、ひそめた声で告げられたからだった。
やたらと友好国顔で頼み事ばかりしてくるバビロニアの国情を(王だけではなく、神殿の神官たちの正体をも)見極めてこいと、アテナは言っている。
バビロニア神殿の神官たちの、極めて婉曲的に美しい言葉の裏にある本性を探る任務なら、精一杯 励まないでもない。
そう思うことで、氷河は、自らのバビロニア派遣に とりあえず得心し、オリエントの地――肥沃なメソポタミアへと向かったのだった。






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