ソラ町人命救助事件の真実






ほんの数日前まで、彼は、日本のヒーローとまでは言わないが、多くの人々に褒め称えられる人間だった。
彼は、縁もゆかりもない赤の他人の命を一つ、厚意から無償で助けるという善行を行なった。
半月ほど前、東京スカイツリーの足元にある東京ソラ町ダイニングフロアのバックヤードに 心肺停止状態で 倒れていた男性を、AEDで蘇生させ、ソラ町を運営している企業と所轄の警察署から感謝状を贈られたばかりだったのだ。

彼の人命救助行為の時から遡ること一ヶ月、所も同じソラ町の別フロアで、その場に居合わせた数百人の客やテナント従業員たちが設置されているAEDを怖くて使えなかったために、人によっては倒れている女性の胸に触って痴漢行為の疑いを受けたくないという理由で AEDの使用を避けたために――急性心不全で亡くなった若い女性がいた。

これでは、何のためにAEDが設置されているのか わからない。数百人の衆目の中、死んでいった女性が気の毒だ――といった調子で、活用されないAEDが 問題になっていた時だったので、一般客にすぎない彼の勇気ある人命救助行為は、ソラ町のイメージアップを図りたいソラ町運営企業と AEDの利用と普及を促したい厚生労働省の作為もあって、様々な報道媒体で広く報道され、多くの人間の知るところとなった――多くの人間の称賛を受けることになった。

彼は、『安全第一、現場事故ゼロ』を社是に掲げる建設会社社員でもあったので、彼の勤務先の会社もまた、彼の善行を利用した。
彼の人命救助の事実を大々的に社内外に喧伝し、それを 自社の社員教育のたまものと誇り、職場環境の優秀さのアピールに役立てたのである。
勤め先でも、彼は、社内表彰制度で、特に会社に貢献した社員に贈られる優秀社員賞を受賞した。

そんなふうに、死に瀕していた一人の人間の命を救うという立派な行為を為した彼が、一転、囂々たる非難を浴びることになったのは、彼が命を救った男が 国民の大多数に憎まれた男、国民の大多数に『死んで当然』『死ねばいい』と思われている男だったことが 明らかになったから――だった。

国民の大多数に『死んで当然』『死ねばいい』と思われている その男は、十数年前、自身の結婚相手の連れ子である4歳の女の子を虐待し、死なせた――否、殺した男だった。
殺された少女が 自分を虐待する両親を慕い、どんなに非道な仕打ちを受けても、両親に愛されたい、自分に笑いかけてほしいと願い、そのために懸命に努力していたことが、多くの人間によって証言され、また その事実を記録した動画や絵が 証拠品として裁判で採用され、メディアによって公開されると、彼女を殺した義父は 日本国民の憎悪と軽蔑の的になった。

『ママ、大好き』
『新しいパパも好き』
『パパとママに褒められるような いい子になります』
動画に残り、絵日記にも描かれていた、『だから、私を愛して』のSОSが、多くの人間の心を揺さぶった。
彼女が生きている時には、彼女の周囲の大人たちの誰一人、彼女のSОSに気付けなかったからこそ、なお一層。

薄幸の少女の実父と実母は 彼女が2歳の時に離婚。
母の再婚相手が、自分自身をしか愛せない非情な男だったのが、少女の不運だった。
実母は、自分が二度目の夫のDVから逃れるために、幼い継子を虐待する夫の協力者になってしまったのだ。

可愛らしかった少女が、食事も与えられず、がりがりに痩せて、最後は『そこにいるのが 鬱陶しい』と冷水を浴びせかけられ、真冬のベランダに放置されて、凍え死んだ。
少女の足の裏には、煙草の火を押し付けた跡が幾つも残っていた。
愛してほしい人に愛されず、虐待され、それでも、頼れる相手は自分を傷付ける両親しかいない。
僅か4歳の幼い少女の悲しすぎる死は、日本国中の心ある人々の涙を誘った。
そして、裁判で判明する虐待の非道な内容が 幼女虐待男への憎しみを募らせた。

血の繋がった娘をいたぶり殺した男への 15年の求刑、判決は9年。
少女の義父は、裁判で号泣して改悛の情を示し、減刑を勝ち取ったのである。
判決を聞いた国民の多くが、4歳の少女が泣いて許しを乞うても 耳を貸さずに虐待を続けた男の涙や改悛の情を信じた裁判官たちの甘さと 寛大すぎる判決に 激怒し、批判した。

夫のDVに怯え、娘を見殺しにした少女の実母は、懲役7年の判決を受けた。
彼女が出所後 自殺していた事実は、皮肉にも ソラ町での人命救命活動の余波で、周知のこととなった。
それゆえ 一層、義理の娘を殺した男への人々の非難と憎悪は激しく 大きなものになったのである。

刑に服し、出所して2年。
誰も たった9年で 彼の罪が贖われたとは思っていない、
むしろ、今でも、多くの人間が 死刑判決が妥当だったと思っている。
その男が うまい具合いに死んでくれたのだ。
だというのに、余計な手出しをして、極悪非道な悪党を助けた阿呆がいる。
救命処置などせず、そのまま死なせてしまえばよかったのに――と、多くの人間が内心で あるいは堂々と表立って、舌打ちをした。
いたいけな少女を冷酷に殺してしまった男が、あろうことか またしても、2歳に満たない幼女を抱えたシングルマザーと同棲している事実を 週刊誌がすっぱ抜いたことで、大衆の怒りの炎は 更に大きく燃え上がることになったのである。

この事件には、更に おまけがある。
冷酷無比の虐待男の命を救った建設会社社員が やはり連れ子のいるシングルマザーとの再婚者で、過去に一度、児童虐待を疑われて 児童相談所に通報されていた事実が、週刊誌の取材によって判明。
かくして、悪党が悪党を救ったのだと、命を救った者、救われた者の両者が、日本国中の善意の人たちから憎まれる事態が現出することになったのだった。


これが、ソラ町人命救助劇の第一幕の あらすじである。
続いて、第二幕が上がる。
第二幕は、社会派愛憎劇の第一幕とは打って変わったミステリー仕立ての謎解きストーリーになった。






【next】