日々是好日






『早起きは三文の得』と、俗に言う。
だが、その日、ナターシャはついていなかった。
いつもより30分も早く起きたのに、とことん ついていなかった。
それは、ナターシャが『早起きは三文の得』という諺を知らなかったから――ではなかっただろう。
その諺を知っている人間が全員、早起きした日に得をしているのなら 話は別だが、現実はそうではないのだから。

その日、ナターシャが いつもより少し早く起きたのは、前日 買ってもらった洋服を一人で こっそり着てみようと思ったからだった。
薔薇色のミディ丈のワンピースドレスと、白いフラワーレースのボレロのアンサンブル。
パーティ用のドレスではないのだが、お出掛け用。
今月末、城戸邸で沙織が主催する内々の お花見パーティに着ていくために買ってもらったものである。
白い花柄のレースの隙間から ワンピースの薔薇色が透けて見えて、さりげなく華やか。
あのアンサンブルを着て、沙織サンの前に立ったら、きっと沙織サンのように、自然に上品に振舞える本物のお嬢様になれるに違いない。
そう、ナターシャは思っていた。

洋服を選ぶ際、試着は念入りに行なった。
サイズ、動きやすさ、着やすさ、着心地、安全性。マーマの厳しいチェック項目をすべてクリアしたワンピースである。
似合うか、可愛いか、品がいいか、パパの好みかどうかも、ナターシャは 何度もパパに確認した。
『お花見の日まで、汚さないようにしまっておこうね』とマーマは言っていたが、あのワンピースが本当に自分に似合うかどうかを、事前に もう一度 確かめておきたい。
ワンピースに似合うリボンも、今から選んでおけば、当日 慌てなくて済む。

ナターシャは、だから、昨夜のうちから決めていたのだ。
今日は いつもより早起きをして、マーマにばれないように こっそり、もう一度、新しいワンピースを着てみることを。
そのために、日の出と共に目覚められるよう、夜のうちにカーテンを開けておくこともした。
準備は万端だったのだ。

その日は とても いい天気。
マーマが起きて朝ご飯の準備をする音や パパが帰ってきた気配ではなく 朝日で早起きすることも、予定通りに ちゃんとできた。
そこまでは、予定通り、うまくいっていた。
そこまでは完璧だったのだ。
ところが。

朝日で目覚めた自分を『ばっちりダヨ、ナターシャ』と褒めてあげて、ナターシャは 景気づけに いつもは あまりしない背伸びをしようとした。
それが よくなかったのかもしれない。
上体を起こしてから背伸びをすれば 問題はなかったのだが、横になったまま 両腕を伸ばしたものだから、ナターシャは二つの拳をベッドのヘッドボードに思い切りぶつけてしまったのである。
『痛い!』と声を上げそうになるのを、ぎりぎりのところで我慢。
声を上げてしまったら、間違いなく 極秘の早起き計画を マーマに気付かれるので、ナターシャは ぎゅっと唇を引き結んで、声を喉の奥に押し戻した。

泣きたいのを我慢して、半分 べそをかきながら、ワードロープからワンピースを取り出し、着てみる。
マーマの着やすさチェックをクリアしただけあって、背伸びをして強打した手でも、薔薇色のワンピースは着るのに手間取ることはなかった。
マーマがОKを出した洋服には、髪の毛が引っ掛かるようなファスナーやボタンはないのだ。

だが、ぶつけた手が痛くて、髪を綺麗に梳かせない。
リボンも上手に結べない。
お出掛けの日は、マーマにちゃんと髪を整えてもらおうと、ナターシャは、心の予定帳に しっかり書き込んだ。
ツインテールの髪は少し左右が非対称になっていたが、それでも、新しい洋服を着ると、やはり嬉しい。
姿見の前で くるりと回って、お姫様のお辞儀をしてみたり、歩いてみたり。
椅子の座り方も、スカートや姿勢が綺麗に見える座り方を何通りも試して、ベストのポーズとポジションをマスターした。
目標は、“さりげなく自然に上品で可愛い お嬢様”である。

しばらく鏡の前で 上品で淑やかな立ち居振る舞いを練習するうちに、ナターシャは、
『ある人が上品かどうかは、ものを食べたり飲んだりする時に、最もよくわかる』
と、以前 紫龍が言っていたことを思い出した。
星矢が人の何倍ものスピードで、人の何倍もの量を食べるのに、あまり下品に見えないのは(上品なわけでもないが)、零さず、残さず、音を立てず、綺麗に食べるからなのだと、紫龍はナターシャに教えてくれた。
実際、皆が集まって会食をした時、食事を終えたあとの食器は、星矢のものが いつもいちばん綺麗だった。
そのことを思い出したナターシャは、お行儀よく お茶を飲む練習もしておこうと考えたのである。

音を立てないように細心の注意を払って 部屋を出、キッチンに入る。
使うティーカップは、ご飯や おやつの時に使う壊れないマグカップではなく、お客様用の磁器のティーカップ。
お茶を入れるのは無理なので、冷蔵庫からグレープジュースを取り出して、お茶の代わりにカップに注ぐ。
そのカップを、ナターシャは、ダイニングテーブルではなく、リビングルームのローテーブルの方に運んだ。
そして、上品にソファに腰掛け、カップの取っ手を指先で つまんで、沙織サンが微笑むように飲む時の姿を脳裏に思い浮かべ、その通りにしようとした。

そこで迷いが生じたのがよくなかったのである。
沙織サンはティーカップを持つ時、小指を立てていたか、否か。
ハンドルに指を通さないことは、ナターシャも知っていた。
「ナターシャちゃんは小さいから、取っ手に指を通さずに持つのは難しいでしょう? 無理はしなくていいんだよ」
と、マーマに言われたことがある。

城戸邸に行った時、いつも ナターシャのカップだけ お茶の量が少ないのは、小さな子供は、カフェイン入りの飲み物を たくさん飲んではいけないから。
同時に、カップが重いと、ナターシャが お作法通りの持ち方ができないだろうと、メイドさんが気を遣ってくれているから。
ナターシャは、マーマに そう教えてもらったことがあった。
だから、ハンドルに指を通してはいけない。
それは、わかっていた。
だが、その時、小指は伸ばすのだったか、曲げるのだったか。
そこのところを、ナターシャは よく憶えていなかったのだ。

(あれ? あれ? あれ?)
唇の前にカップを運び、小指を伸ばしてカップから離したり、他の指と一緒に曲げてみたり。
何度 試しても、どちらが 上品なお嬢様らしいか わからない。
「ど……どっちだったかな……」
と声に出した途端、背伸びで ヘッドボードにぶつけた手で持っていたカップが傾き、カップの中のグレープジュースがワンピースの胸元に飛び散った。






【next】