その瞬間。 ナターシャは、何が起こったのかが、咄嗟に理解できなかったのである。 何が起こったのか理解はできていないのに、ショックで 頭の中は真っ白になった。 (ど……どうしてっ !? ) 考えが、なかなか『どうしよう』まで進まない。 頭の中で『どうして?』を10回ほど繰り返してから、それが やっと『どうしよう』に変わり、ナターシャは まず 手にしているカップをテーブルの上に戻すことを思いついた。 上品に指でつまんでいたカップをテーブルの上に戻そうとしたのは、もちろん、これ以上 ジュースを零さないためである。 だというのに、あまりに混乱していたせいで、ナターシャは 手にしていたカップを ソーサーではなくテーブルの上にじかに、しかも 横に置いてしまった。 当然、カップの中に残っていたジュースは すべて テーブルの上に流れ出る。 そして、小さな滝を作ってテーブルの下のラグの上に流れ落ちる。 グレープジュースの滝は、アイボリーのラグカーペットに 不気味な形をした赤紫色のシミを作った。 これは、もう、マーマに隠せない。 パパにも ばれてしまう。 と、ナターシャは思った。 シミの上にクッションを置いて、そのクッションに ずっとナターシャが座っていれば、パパはごまかせるかもしれないが、マーマはごまかせないだろう。 この場合、最大の問題は、ジュースを零したことではない。 飛び散ったグレープジュースが、ワンピースとボレロの胸元にシミを作ってしまったことの方である。 これでは、“上品で可愛い お嬢様”など 夢のまた夢。 シミのついたワンピースを着た“上品な お嬢様”など、世界中 探してもいるはずがなかった。 『“上品な お嬢様”は、おまえには無理なのだ』と神様に言われているような気がして、ナターシャの瞳には涙がにじんできてしまったのである。 せっかく朝早く起きて、上品なお嬢様のように振舞う練習をしたのに。 ナターシャが城戸邸のお花見で 上品に振舞えば、沙織サンや招かれているお客様たちが ナターシャを褒めてくれて、パパとマーマが喜んでくれるだろうと思ったのに。 ナターシャのことを誇らしく思ってくれるだろうと思ったのに。 計画はすべて水の泡。 せっかくのワンピースがこれでは、城戸邸のお花見会自体に行けなくなるかもしれない。 ショックが大きすぎて、ナターシャはもう、涙も、ワンピースのシミも、ラグカーペットの汚れも隠す気がなくなってしまった。 マーマに内緒で新しいワンピースを着てみようとしたことも、ワンピースを汚してしまったことを悲しむ気持ちも、その悲しさが生む声も、もう隠せない。 その気力がない。 ナターシャは、声を漏らして泣き出した。 そこに マーマがやってきたのは、何らかの異変を感じたからか、単に いつもの時刻になったからだったのか。 「ナターシャちゃん……? こんなに朝早く、どうしたの?」 左右が非対称の上、くしゃくしゃに絡まって、綺麗にまとまっていない髪。 昨日 買ったばかりの薔薇色のワンピース。 テーブルの横に ぺたりと座り込み、顔を涙で ぐしゃぐしゃにしているナターシャ。 テーブルの上には、ティーカップが転がり、テーブル下のラグには赤紫の大きなシミ。 何が起きたのかは わかるが、なぜ そうなったのかは、さすがのマーマにもわからなかったのだろう。 駆け寄ってきて ナターシャに怪我がないことを確かめるマーマに、ナターシャは、零れ落ちる涙を拭いながら 謝ったのである。 「ご……ごめんなさい。ごめんなさい、マーマ。ナターシャは……ナターシャは、新しいお洋服を着てみたかったんダヨ。新しい お洋服で、どういうポーズをとれば可愛いか研究して、沙織サンみたいに お上品に お茶を飲むんダヨ。お茶の代わりがグレープジュースで、それから、新しいお洋服にいちばん似合うリボンを選んで、それで、パパとマーマがナターシャが いい子でよかったって思うはずだったのに、なのに、何でだか――」 順を追って 理路整然と説明しているつもりなのに、自分が何を言っているのか、自分でも よくわからない。 マーマが、薔薇色のワンピースと白いレースのボレロに描かれたブドウの色をしたドット模様を見詰めている。 その視線が、ナターシャの焦慮と混乱に一層 拍車をかけた。 そんなふうに混乱して 何が何だか わからなくなっているナターシャに、超強烈な とどめの一撃。 「派手に やらかしたもんだな」 パパが どうやら、いつもより早く、夕べのうちに帰ってきていたらしい。 リビングルームに現れたパパの その感想(?)を聞くや、 「うわーん !! ナターシャのお洋服が汚れちゃったーっ !! 」 ナターシャは大声をあげて、泣き出してしまったのだった。 これまで我慢していた分、ナターシャの泣き声は大きい。 しかも、どんどん大きくなる。 「ナ……ナターシャちゃん……!」 瞬が氷河を睨みつけ、睨まれた氷河は すぐに視線で謝った。 氷河に謝られてもどうにもならない――というのが、瞬の本音だったが。 |