とにかく ナターシャの啼泣――号泣というべきか――を収めることが最優先課題である。 瞬は、床にへたりこんでいるナターシャの肩を抱き、背中を撫でながら、望ましい鼓動の速さで トントンと軽く背中を叩いてやった。 赤ん坊を泣きやませるのに有効な方法だが、これがナターシャにも よく効くのだ。 ナターシャの号泣が、嗚咽にまで弱まってくる。 「ナターシャちゃん、泣かないで。ワンピースはクリーニングに出そう。きっと綺麗になるよ。沙織さんのご招待まで、まだ10日もあるから、早めにクリーニング屋さんに出して シミ取りをお願いしておけば、大丈夫だからね」 『きっと綺麗になる』の一言が、ナターシャの嗚咽を 瞬時に止めた。 瞳は涙で濡れているが、もう新しい涙は生んでいない。 ナターシャは、大きな瞳で 瞬の顔を見上げてきた。 「ほんと? でも、ずっと前に、ナターシャが チョコでブラウスを汚しちゃった時は、なかなか取れなかったヨ。ナターシャ、すぐに お水で洗ったのに、ちっとも綺麗にならなかった」 あの時のブラウスは淡い水色だった。 チョコレートが茶色のクレヨンのように ブラウスを汚し、それは洗っても洗っても取れなかったのだ。 あれ以来、ナターシャは、チョコレートを食べる時には とても注意深くなったのである。 「チョコレートは油を含んでいるからね。油のシミは水で洗うと、汚れを広げるだけなんだよ。洋服のシミは、服の素材と シミの原因に油が含まれているかいないか、シミができてから どれくらい時間が経ったかで、全然違ってくるんだ。ジュースは大丈夫。とりあえず、応急処置をして……えーと、これはワンピースが絹で ボレロのレース糸は綿で、シフォンのところは汚れてないね。ジュースのシミは 油じゃないから、とりあえず 水で薄めちゃっていいのかな?」 シミ取りは、瞬より、客に酒を提供する店で働いている氷河の得意分野である。 瞬が尋ねると、氷河は、ナターシャの頭に手を置いて頷いた。 「水洗いはしていい。当て布に、ある程度 シミを写し取っておけばいいだろう。ジュースのシミは果物の種類によって、適した洗剤があるから、クリーニング屋に持って行った方が確実だ。シミは時間が経つと、その分、布地の糸に沁み込んでいくから、早い方がいい」 「わかった」 その応急処置をするために、瞬が その場に立ち上がるより早く、 「了解ダヨ!」 と答えて、ナターシャが駆け出す。 「えっ」 驚く氷河と瞬をその場に残し、ナターシャは玄関に急行していた。 『早めにクリーニング屋に』という氷河の言葉を聞き、ナターシャは一刻も早くクリーニング屋に行こうとしている――らしい。 新しい洋服に合わせようと考えて、昨日玄関に出しておいた靴を履き、 「急ごう、マーマ。クリーニング屋さんにダッシュダヨ!」 ナターシャは、瞬を急かしてきた。 「早く、早く!」 心は既にクリーニング屋の許に飛んでいるのだろう。ナターシャは その場で駆けっこを始めてしまった。 もちろん、シミのついたワンピースを着たままである。 気持ちはわかるのだが――気持ちは わからないでもないのだが。 まさに気持ちだけが先走っているナターシャを、瞬は そのまま走らせるわけにはいかなかったのである。 なにしろ、 「ナターシャちゃん。そんなに急いで出ていっても、クリーニング屋さんはまだ開いてないよ」 だったので。 「えっ」 それは、ナターシャには想定外。 その衝撃の事実のせいで、たったったっと ウォーミングアップをしていたリズムが乱れ、足がもつれて つんのめり、ナターシャはその場に前のめりに倒れてしまった。 どたっと、ナターシャの倒れる音と、 「ナターシャっ!」 氷河の声が、ほぼ同時に 玄関に響く。 「いたぁ……」 ナターシャは手の平と膝を 床に強く打ちつけ、特に右膝は 活発な女の子らしく(?)見事な擦過傷ができていた。 だが、ナターシャには、自分の負傷より、今の転倒のせいで、新しいワンピースに合わせて履く予定だった靴にまで擦り傷がついてしまったことの方が、より大きな衝撃――むしろ打撃――だったらしい。 一度 自分の足で立ち上がったナターシャは、靴の負傷に気付くや否や、その場にへなへなと へたり込んでしまった。 「パパ、マーマ。ナターシャはもう駄目ダヨ。ナターシャは、もう立ち直れない。ナターシャは、もうずっと おうちで引きこもってるヨ。そうすれば、これ以上 悪いことは起きないヨ」 「そんな……元気出して、ナターシャちゃん。今日は僕、準夜勤で、お仕事は夕方からなんだよ。昼間は ずっとナターシャちゃんと一緒にいられる。お天気もいいし、ご飯を食べたら、何かいいことを探しに、三人で お出掛けしよう」 “オデカケ”は、ナターシャを元気にする魔法の呪文である。 いつもは そうなのだが、今日は違った。 「ナターシャが今日、オデカケしたら、いいお天気も嵐になって、ナターシャは遠くに飛ばされて、びしょびしょになって、風邪をひいて、何とか おうちに帰ってこれても、そのまま寝込んじゃって、死ぬまで起き上がれなくなるに決まってるヨ!」 想像力豊かなのは、いつもと変わらないが、いつも前向きなナターシャが、この落ち込みようは珍しい。 “上品で可愛いお嬢様”志願のナターシャには、まだ ほとんど着ていなかった綺麗なワンピースと ぴかぴかの靴を駄目にしたダメージが それほど大きかったということだろう。 だが、ジュースのシミで そこまで落ち込むことはない(と、大人は考える)。 「今日は 嵐にはならないと思うけど……。お洋服はクリーニングに出せば、綺麗になるよ。もし駄目だったとしても、その時は、シミのできた場所に花やリボンを飾って隠せばいい。靴も、これくらいの傷なら、修理に出せば、すぐに元通りになるよ」 「靴の修理屋さんがあるの?」 「あるんだよ。そのことを知ることができてよかったでしょう? 今日の失敗は、そのお勉強のための失敗だったと思えば いい。今日 失敗したおかげで、ナターシャちゃんは、この先ずっと、靴に傷を作っても慌てずに済むよ」 「デモ……デモ、駄目ダヨ。こんなに駄目駄目なことばっかり、いっぱい 続いて起きて、ナターシャの人生はもうおしまいダヨ」 「じ……人生?」 「人生に失敗した人は、死ぬまで おうちの中に引きこもっていなきゃならないんダヨ」 ナターシャは いったい どこで そんなことを覚えてきたのだろう。 瞬はちらりと氷河を一瞥した。 “人生に失敗して(そう思い込んで)、おうちの中に引きこもっている人”の存在を ナターシャに教えた人間が、ナターシャの周辺にいるはずである。 いくらナターシャが想像力豊かな少女だといっても、“引きこもり”を 独力で想像(創造)できるわけがないのだ。 氷河が口を滑らせたのかと思ったのだが、そうではなかったらしい。 氷河は首を横に振った。 そして、今は、ナターシャを引きこもりの入り口から遠ざけることが最優先課題だということを(視線で)示してくる。 その意見には、瞬も同意。 そのために――瞬は、玄関に へたり込んでいるナターシャを抱き上げた。 抱きあげたナターシャを、リビングルームに運びながら、瞬は ナターシャに 引きこもりの何たるかを伝授し始めたのである。 |